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平成二十四(2012)年 昭和節奉祝 その二

2012/05/03 13:28

 

 

 

 

  以下は、平成二十四(2012)年五月二日の産経新聞朝刊オピニオン欄(6面)に掲載された記事、産経新聞九州総局長野口裕之記者による

 

    from editor 「先帝陛下の大御心」

 

   の全文です。

 

 

  先帝昭和天皇が、三十年ぶりで佐賀県に行幸あらせられましたのは、昭和二十四(1949)年五月二十二日(日)のことでありました。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

  先帝(昭和天皇)陛下は昭和24年、佐賀県に行幸された。

 

 

 敗戦で虚脱した国民を励まされる全国御巡幸の一環で、ご希望により因通寺という寺に足を運ばれた。

 

 地元の友人から聞いたその際の逸話に、陛下が背負い続けた深い悲しみと苦しみが滲む。

 

 住職・調 寛雅(しらべ・かんが:平成十九年一月三十日歿氏の著書天皇さまが泣いてござった」(教育社)に詳しいが、そのお姿は「刻苦」を正面から引き受ける修行僧のようでもある。

 

 

 

 

 寺では境内に孤児院を造り、戦災孤児40人を養っていた。

 

  陛下は部屋ごとに足を止められ、子供たちに笑みをたたえながら腰をかがめて会釈し、声を掛けて回られた。

 

 ところが、最後の部屋では身じろぎもせず、厳しい尊顔になる。一点を凝視し、お尋ねになった。

 

 

 「お父さん、お母さん?」

 

 

 少女は2基の位牌を抱きしめていた。女の子は陛下のご下問に「はい」と答えた。

 

 大きく頷かれた陛下は

 

 

   「どこで?」

 

 

 と、たたみ掛けられた。

 

 「父は満ソ国境で名誉の戦死をしました。母は引き揚げ途中で病のために亡くなりました」

 

 

 「お寂しい?」

 

 

 と質された。少女は語り始めた。

 

 

 「いいえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。

 

 仏の子は、亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土に行ったら、きっとまた会うことができるのです。

 

 お父さんに、お母さんに会いたいと思うとき、御仏様の前に座ります。

 

 そして、そっとお父さんの、そっとお母さんの、名前を呼びます。

 

 するとお父さんも、お母さんも私の側にやってきて抱いてくれます。だから、寂しいことはありません。

 

 私は仏の子供です」

 

 

 陛下は女の子の頭を撫で

 

 

  「仏の子はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」

 

 

 と仰せられた。

 

 見れば、陛下の涙が畳を濡らしている。

 

 女の子は、小声で「お父さん」と囁いた。陛下は深く深く頷かれた。

 

 側近も同行記者も皆、肩を震わせた。

 

  実はこれより前、陛下にお迎えの言葉を言上した知事が、嗚咽で言葉を詰まらせていた。

 

 側で見て「不覚をとるまい」と肚を据えた住職も落涙した。

 

 そればかりか、ソ連に洗脳されたシベリア帰りの過激な共産主義者の一団まで声をあげて泣いた。彼らは害意をもって参列していた。

 

 皆、陛下のご心中を察しつつ、その温かみに感極まったのだ。

 

 自らの戦中・戦後も自然、重ね合ったに違いない。

 

 

 日本から皇統を取り去ったら、何が残るだろうか…。

 

 

 

 

 

産経新聞九州総局長 野口裕之)

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 写真は「昭和天皇の御巡幸」(鈴木正男著:展転社刊)より。

 

 住職調寛雅師の説明をお受けになりつつ、各部屋をお回りになられる陛下。

 

 あの、二つの位牌を抱きしめた少女との出会いは、この直後のことであった。

 

 

 

 

 

 

 

  ネットサーフィンしておりますと、この佐賀県三養基郡基山町在の因通寺における先帝陛下御巡幸のエピソードは、沢山の方が限りない感動と誇りを胸に、アップしておられますね。

 

 私も、先帝陛下の御聖徳、御遺徳を御偲び申し上げるために、私達日本国民が折に触れて記憶を新たにするにふさわしい故事だと思います。

 

 はるか未来の我が子孫たちは、例えば、民の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて以来租税を免除され、民の竈の炊煙が復活したのをご覧になるその時まで、倹約のために雨漏りのする宮殿の屋根の葺き替えすらお許しにならなかった仁徳天皇の故事などとともに、天皇と大御宝(おおみたから:日本国民)との絆の深さを物語る麗しき出来事として、永久(とわ)に思いをはせるのではないでしょうか。

 

 地元九州の方はもちろんですが、遠方にお住いの皆様一度基山にお越しになって、先帝陛下の御聖徳の一端に触れてごらんになることをお勧めしたいと思います。

 

 (但し、現地は所謂”観光地”ではありません。物見遊山のための施設等は一切ありませんので、念のため申し添えます)

 

 

 

 

 

 因通寺

 

 〒841-0204

 

 佐賀県三養基(みやき)郡基山(きやま)町宮浦815

 

 0942-92-2953

 

 

 

 

  JRご利用の方)

 

 博多駅から、鹿児島本線下りに乗って下さい。ただし基山駅は特急は停車しません。普通、準快速、快速が停車します。博多駅から見て、二日市駅の四つ先、鳥栖駅の三つ手前の駅です。

 

 

  (西鉄電車をご利用の方)

 

 福岡市中央区天神の、西鉄天神大牟田線福岡天神駅から大牟田方面行きの急行もしくは普通に乗り、西鉄小郡駅(特急は停車しない)で降りる(天神で特急に乗り、二日市で急行もしくは普通に乗り替えることも可。西鉄電車では特急料金の負担はありません)

 

 

 西鉄小郡駅正面出入り口を出て駅前のロータリーを抜け、右に折れて200mほど歩くと左に、甘木鉄道小郡駅(高架)があるので階段を昇ってください。やがてレールバスがやってきます(単線ですので若干待ち時間があります)。

 

  ここから、基山方面行き(基山は左方向です)に乗って下さい

 

 

 

 (Google Earth)

 

 

 (Google Earth)

 

 

 (Google Earth)

 

 

 

 

 甘木鉄道は、小郡付近では九州自動車道の分岐点鳥栖ジャンクションに合流する大分自動車道と並行して東西に延びています。

 

 画面右上から中央下にかけて延びる鉄道線路は、西日本鉄道の天神大牟田線。

 

 

 (Google Earth)

 

 

 

 

 当ブログ管理人nobbyは、かつて小郡市に二度、通算十年近く住んでおりましたので基山町にも何度となく足を運びました。

 

 甘木鉄道小郡駅のホームに上がり、東(福岡県三井郡大刀洗町、朝倉市方面)、つまり右手方面を見る。

 

 

 

 

 

 

 甘木鉄道と並行、画面中央を真横に走るのが大分自動車道

 

 下には西鉄天神大牟田線が南北(画面では左右)に走る。パンタグラフ高速道路の上に伸びていますね

 

 画面左方向が福岡、右方向が久留米・大牟田方面

 

 

 

 

 

 

 甘木鉄道小郡駅のホームから西(基山方面)を見る。

 

 

 

 

 

 大分自動車道の下(画面左上)は、西鉄や甘木鉄道を利用する小郡市民の駐輪場となっている

  

 

 

 

 

 朝倉市方面から、基山行きのレールバスが来ました。一両だけの、のどかな車両です。

 

 

 

 

 

 車内からの風景(地味ですね)やがて九州自動車道のガードをくぐり抜けます。

 

 

 

 

 

 下に見えるのは国道三号線。間もなく甘木鉄道基山駅、終点です。

 

 なお甘木鉄道基山駅とJR基山駅は同じ構内にありますので、歩いて連絡できます

 

 

 

 

 

 

 (Google Earth)

 

 

 

 

  基山駅を出て、正面を200mほど真っ直ぐ歩くと、比較的大きな道にぶつかります(基山駅入り口の表示ここを右に曲がり、歩いてください。やがて右に福岡銀行、佐賀銀行の支店、左に佐賀共栄銀行の支店がありますので、そのまま通過します。

 

 その先に玉虫という表示のある交叉点がありますので、ここで左に曲がって下さい。

 

 700mほど歩くと、右に基山町役場があります。役場を過ぎてすぐ、右奥には佐賀県下有数の進学校東明館学園が見えますが、そのまま真っ直ぐ進みます。

 

 

  鳥栖筑紫野有料道路のガードが見えてきますので、それをくぐってさらに進んで下さい。

 

 

 

 

  やがて、道路の左に下の掲示板が現れます。

 

 

 

 

 

 (Google Earth)

 

 

 

  掲示板から右に曲がると、水路に架かった小さな橋があります

 

 

  

  

 

  

 

 

 

  

 

 

 

  

 

 

 

 

  昭和天皇の行幸を記念する石碑

 

 

  

  

 

 

 

 

 

 側面と裏面

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

  昭和天皇御製 因通寺洗心寮

 

  みほとけの 教まもりて すくすくと 生ひ育つべき 子らにさちあれ

 

 

 

 

 

 

 

 

 (Google Earth)

 

 

 

  境内には、幼稚園も併設されていました。画面右側、塀越しに見える建物がそれです

 

 

  

 

 

 

 

 

 

  因通寺の境内から見た洗心寮。 

 

 

 

 

  写真はすべて平成二十(2008)年一月二十四日、nobby撮影。

 

 

 

 

 

 

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平成二十四(2012)年 昭和節奉祝

2012/04/29 00:00

 

 

 

 昭和節奉祝

 

 

 

 

 昭和天皇香淳皇后御肖像Wikipedia 

昭和三十一(1956)年十一月撮影

 

 

 

 

  本日、平成二十四(2012)年四月二十九日(日)は、明治三十四(1901)年四月二十九日(月)、先帝昭和天皇が大正天皇のご長子としてご誕生になられましてから、百十一回目の記念日、昭和節であります。

 

  

  ご誕生以来、昭和六十四(1989)年一月七日(土)払暁の崩御の御時に至るまで、常に日本国の弥栄と日本国民の安寧と幸福を祈り続けてこられました。

 

 私など、吹けば飛ぶようなたった一人の日本人、日本国の片隅に生きる中年オヤジではありますが、先帝陛下の御厚恩を忘れることなどできません。

 

  万世一系、世界最古の皇室を奉戴し、厳しくとも(出典は忘れましたが、地球上に起きる全ての自然災害の一割は日本列島とその周辺で起きている、という話を以前読んだ記憶があります美しく豊かで、四季に恵まれた国土。

 

 れこそ我が祖国、今に生きる母国、そしていつの日か骨を埋めるであろう故国・・・それが日本なのです。

 

 

 

 皇祖神武天皇以来歴代天皇、そして幾多の先人たちが守り続けてきた日本国は、何も今を生きる日本人だけのものではありません。

 

 日本の未来を考えるのは日本国民の責務でありますし、同時に今を生きる日本国民は、今は亡き、かつて日本国を去来し日本国に殉じた無数の先人、古人(いにしえびと)の発する声に、我田引水を排して耳を傾けなければなりません。

  

  歴史に学ぶとは、そういうことのはずです。

 

 今を生きる日本人も、古人も、未来の日本の運命を決める投票権は、等しく一票を保持しているのですから。

 

 

 

  歴史を振り返ってみますと、目先のことに捉われて拙速に過ぎ、あるいは結論の先送りが過ぎて望ましい結果に至らなかった日本国民の意思表示が、いくらでもありましたし、これからもなくなることはありえません。

 

 神ならぬ身の人間たちが、あちらでもこちらでも目先の利益を巡って右往左往、自己の利益のためなら他国に媚を売り、同胞を貶め、国益を忘却して恥じないのが現在の日本、もしかして多くの国民の真姿であるとすれば、それも致し方ないのかもしれませんが。

 

 しかし私は、日本国民の大多数がそれを諒としているとは、信じたくありません。

 

 

 問題なのは、そのことを知ってか知らずか、国民が考えることに追われている隙に日本国の伝統の根幹にメスを入れ、多くの国民がそれと気付かないうちに切除手術と移植手術を同時にやってしまおうと画策している(としか思えない)勢力、日本人が確かにいる、ということです

 

 悲しいことです。暗澹たる怒りを覚えざるを得ません。

 

 私は、こういう輩の蠢動を黙って許すことはできかねるのであります・・・。

 

 

 

 

 

  謹んで先帝陛下の御神霊に白(もう)

 

 御皇室と日ノ本の弥栄に、何卒御力添えを賜わりますよう、庶幾(こいねが)い奉ります

 

 

 

 

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日本国の肖像:その四十二 天皇と大御宝 その三

2012/03/28 08:00

 

 

日本国の肖像:その四十二 天皇と大御宝 その三(最終回)

 

 

 

 

 

 

  昭和十五(1940)年四月二十日、紀元二千六百年記念の佳節(紀元節:同年二月十一日)に賜りたる詔書の詔書寫頒布式が、東京地方産業報国連合会主催で多数の出席者を集め、皇居桜田門前の警視庁第一会議室にて挙行された。

  

 さらに式終了後、前侍従長で海軍大将鈴木貫太郎「御聖徳に就いて」と題して記念講話を行ったのである。

 

 

 今回はその三回目(最終回)。

 

 

 

 

  

 

 

 

  大正二(1913)年三月二十九日、京都伏見に行啓され、祖父明治天皇(前年七月三十日に崩御)の御墓所桃山御陵を御参拝になられた迪宮裕仁(みちのみや・ひろひと:後の昭和天皇)親王殿下。

 写真は、御召し列車を降りられた直後、奉迎の人々に答礼をお返しになる殿下の、凛たる御姿(当時十一歳)。

 

 

 

 

 

   (承前)

 

 

 

 

 

 

 

  生 物 学

 

 

 

   生物学に就いて申し上げますが、生物学は陛下は御幼少の頃から多少御趣味がお有りになったのではないかと思います。

   お小さい時に御採集になりました虫類とか、あるいは植物の標本というようなものを大分御保存になりまして、今日拝見することが出来るのであります。

   それが自然に御趣味になったのではないかと、秘かに拝察するのであります。

 

   それで今日、陛下が生物学御研究所に御出でになりますのも全くこの御趣味の為でありまして、御気分の転換であると御自身で仰せられたことも伺っております。

 

 

  

 

 

 生物学御研究所

 

 

(Google Earth)

 

 

 

 

 

 

  決して外の者の学問をするのを苦痛に考えるのとは大変な違いでありまして、非常にお忙しい政務を執り行なわせらるるそのお閑(ひま)に一度研究所に御出でになりましたならば、凡てのものをお忘れになって、研究に没頭遊ばさるるのでそこで御気分が転換せられて、一つの御慰安になる位な御趣味と考えるのであります

 

  またこの生物学の御研究の間に色々なことを御体験になりまして、その間にはまた国民の幸福の上にも御心を寄せさせられることも拝察するのであります。

 

  これはよく御承知のことでありますが、お田植のことでございます。

 

  これは矢張り御研究所の中に一段歩(約10アール)位の田畑がございます。そこで色々な稲をお植えになります。

 

  その稲の中には愛国とか、あるいは農林一号、とかいったような種類のものもございます。

  あるいはまた印度とかシャム(タイ)辺りから取り寄せられた稲もあります。

  つまり米の種子をお植えになって、そして色々御研究になっております。

 

  矢張りこれも、どれが宜しいか、又それ以上のものが出来はしないかと、色々そのことが国民の幸福の上に関係があることを思召されるように拝するのであります。

 

  また一面に於きまして、このお田植は、日本伝来の農業の御奨励の意味もあるのではないか、またお田植ということに就きまして、国民の艱苦を思召される有難い思召しもあるのではないか色々に考えられる。

 

  そして御収穫になりましたお米はこれは矢張り神祇に御供えになります。神様に御供えになります。

  そういう色々の意味でお田植は今日お忙しい場合でも矢張り、年々御実行になってお出でになっております。

 

 


 それからまた、海上の生物の御研究でありますが、葉山あたりへ御出ましになりました時に、彼の処で御研究になります。

 

 

 

 

 

 神奈川県三浦郡葉山町

 

(Google Earth)

 

 

 風光明媚な一色海岸を望む葉山御用邸

 

 (Google Earth)

 

 

 

  


  これは海の中の非常に小さい微生物を御研究になるのでありますが、これが矢張り漁業その他、民の生活の上に将来有益なる指針を与えるのである、という思召しと拝察するのであります。

 

 これもまた却(かえっ)てお楽しみで居らせられまして、始終葉山に於ては海上にお出になるのでありますが、これを側近者から拝見致しますと、毎日小さな船にお乗りになりましてお出掛けになるのでありますが、それに護衛の小蒸汽船も随いて参ります。

 

 これは寧ろ、陛下が御熱心に船中の炎天でそういう研究をなさってお出でになりますことは、衛生の為に非常にお宜(よろ)しい。随分陽にお焼けになります。

 

 それで葉山に行幸にお成りになりました年には、お風邪も余り召されないといような次第でありまして、側近者からは御健康、御運動の方面からも洵(まこと)に有難いことと感じている次第であります。

 

 しかしこれは、陛下はかつて、そういう海上の小さい微生物の如きものを研究することは、却々(かくかく)普通の学者では出来ない。

  それだから、幾らか学者の手助けにやってやるのだというような思召しを承ったことがあります。

 

 洵にその辺りのことは、宏大なる御徳(おんとく)と拝し奉ります。

 

 それで御承知のこととは存じますが、陛下は煙草を召し上らず、お酒も召し上らぬのであります。

 

 それで御道楽は何かと申しますと、生物学只一つであります

 

 洵に高尚な、有難い御道楽と拝する次第であります。

 

 

 

 

 

  御 修 養

 

 


 (ついで)に御修養のことに就いて一言申します。

 

 陛下は御修養ということに就きまして、即ち陛下の御徳を磨くということに就きまして、常に御熱心にお努めになります。色々とまた、御考えになるのであります。

 

 かつて、修養とはどうすればよいか、徳を修めるということに就てはどうすればよいか、という御下問を受けましたことも度々(たびたび)ありましたのです。

 

 そういうように、御修養のことについてお考えになって御出でになった次第でありますから、段々拝しまするには、結局徳を修めるということは御自身で御自分を反省して行く、己(おのれ)によく打ち克ってそして正しい道に進むのだ。孔子の言う克己復禮(こっきふくれい:「論語」顔淵篇)であります。

 

 これが即ち徳を修める途である。そう思召されて、御心を尽くして御実行なさるのであります。

 

 それでありますから、益々御徳(おんとく)弥が上にも(いやがうえにも)宏大無辺であらせられる次第と存じまして、洵に有難き極みであるのであります。

 

 

 

 

  大正五(1916)年四月初旬、行啓先の京都にて御車にお乗りになる迪宮裕仁親王殿下(十四歳)

 

 

 

 

 

 


  
御 仁 徳

 

 

 

 次に、御仁徳のことに就いて申し上げたいと思います。

 

 御仁徳のことに就きましては、大きな点から申しますと新聞等に終始御発表になって居りますことでありまして、よく皆さんの御存じのことでありますが、先ず陛下の御平常を拝しまして、言行一致ということに就いて極めて明瞭に拝察するのであります。

 

 それでありますからして、陛下から賜る所の御勅語あるいは御沙汰というようなことは、これは決して単なる文章ではないのであります。 

 陛下御自身、そのことを御実行になる、熱烈なる思召しを拝するのであります。


 
そして常に、国民の上に大いなる憐みを垂れさせられまして、国民の幸福をお祈りになります。

 

 

 申す迄もなく今日の様な事変(支那事変)に於きましては、戦地に於いて奮戦苦闘して居ります軍人の上に就きまして、特に御軫念(ごしんねん:陛下が御心配なさり、御心を痛め給うこと)在らせられます。


 
屡々(しばしば)侍従武官を御慰問の為に御差遣されまして、また戦死者、戦病死者、傷病兵や遺族の上にも御慰問の恩沢を垂れさせられるのであります。

 

 (さき)には満洲事変の後に多数の戦病死者がありましたので、厚き思召しに依りまして顕忠府を建てられました。

 そして顕忠府には戦病死者の写真をお納めになりました。そして忠魂を慰めることになったのであります。

 

 それで元は、御府(ぎょふ)のお写真は士官だけに限っておりました。

 

 この度の顕忠府に於きましては、凡(すべ)て兵に至る迄の写真をお納めになりました。

 

 そして、その忠魂を慰めらるることになったのであります。
         

 

 

 

 

 御府(ぎょふ)

 

 明治の御代、明治大帝の思召しを受けて、「子々孫々に至るまで、永く保存して忠勇なる陸海軍の功績を不朽に伝ふ」ため吹上御苑南端に建てられた施設群であり、かつて大日本帝国が参戦した戦争の戦利品や記念品、また戦没者の名簿等が納められていた。

 

 振天府(日清戦争記念)、懐遠府(義和団の乱記念)、建安府(日露戦争記念)、惇明府(第一次世界大戦記念)、顕忠府(支那事変記念)が設けられたが、昭和二十年の敗戦以降、不当にすべてが廃止されている。

 

 

(Google Earth)

 

 

 

 

                              

 それからまた平時に於きましても天災とか、あるいは大きな火災がありましたとか、何か特別な出来事がありますと窮民賑恤(しんじゅつ:救援のため現金や物資を配ること)のことに就きましては、直ちに御実行になりまして、屡々侍従なりあるいは侍従武官を御差遣になりまして、御慰問または視察を行わせらるるのであります。

 

 凡てそういう事柄は御仁徳の大きな顕(あらわ)れでありまして、御承知の通り大新聞にも報道せられるのでありまして、茲(ここ)にては詳しくは申し上げませぬ。

 

 

 (かえ)って個々の、平生(へいぜい)色々の細かいことに就きまして、御仁徳の顕れ二、三を申し上げたいと思います。


 陛下の御仁徳に就きまして、下を憐(あわれ)ませられるということは、度々(たびたび)各所で拝するのであります。

 

 例えば天気が悪い、これは時化(しけ)になりはすまいか、また大分日照りが多過ぎる、田の植付けはどうかというようなことを迄御軫念になりまして、そしてその都度侍従を御召しになりまして、中央気象台に天候の調査を御問い合わせになることも屡々であります。


 それから
これは葉山に御出ましになりました時に屡々、海上において
出会うことでございますが、漁船が御航路の前方に釣りをして居ることがございまして、それを御覧になりまして、その漁船が航路の行先に当たっておりますと、それを避けて彼方に行くようにということで進路をお変えさせになることが度々(たびたび)あるのでございます。

 

 それはどういうことかと申しますと、真っ直ぐに御出ましになれば、随いて居る御警衛の船が漁船を追い払う。

 それは彼等の生業(なりわい)を妨げて気の毒であるからなるべくそういうことはするな、という思召しであるのであります。

 

 そして進路を他へお変えになりまして、外側の方から目的地にお出でになることは再々であります。


 
それからまたこれは、数年前食糧問題のやかましい時でありましたが、至る所で米の節約ということが論議された当時であります。

 

 理研の酒に御着眼になりまして、あの酒でも一体飲めるかとお試しになったのであります。

 

 

 

 

ここで鈴木貫太郎が言及している「理研の酒」とは、財団法人理化学研究所(大正六年設立)の鈴木梅太郎博士が発明し、大正十年八月特許権を獲得した「理研清酒」を指している。

 当時、主食でありながら不足しがちな米を原料とせず、さつまいもや雑穀、糖蜜を原料として清酒を造り、これを蒸留して純粋な酒精(エタノール)を抽出する。

 「理研清酒」とは、これにブドウ糖、有機酸、アミノ酸、無機塩類、水等を混合して作られた合成酒のことなのである。

 理化学研究所は、自身の酒類製造部門である理化学興業会社酒造部で「理研清酒」の製造を開始し、順次民間の酒造業各社にも特許実施権を譲渡した。

 

 

 

 

 この時、極く内輪の御陪食でありましたが、斎藤實(さいとう・まこと)元総理大臣が御陪食を賜ったのであります。

 

 そこで何とも仰せられずに理研の酒を卓子(テーブル)へお出しになりまして、そして御陪食の後にあの酒はどうだったというて斎藤元総理にお尋ねになりました。

 

 そうしますと斎藤元総理は、結構なお酒であります。灘の上等な酒と考えます、ということを申し上げました。

 

 所が(陛下が)笑いになりまして、あれは実は理研の酒だ、理研の酒がその位に飲めるならば、米の代用(醸造用に使われるはずだった米を食用に回せるのではないか、の意)になるな、と仰せられたことがあります。


 これは斎藤さん許(ばか)りでなく、慥(たし)若槻礼次郎(わかつき・れいじろう)元総理大臣の時にも矢張り御内輪の御陪食があって、同じように理研の酒を御出しになりまして、同じような御返事を申し上げたように記憶して居ります。

 これらの思召しは洵に有難いことでありまして、御仁徳の御発露と考えるのであります。

 

 

 


 それからこれは、この前の上海事変でありましたが、上海
事変の後で、野村(吉三郎)海軍大将と植田(謙吉)陸軍大将、この二人が凱旋をしまして御陪食を賜ったことがございます。

 

  その時に拝謁があったのでありますが、この拝謁に先立って陛下から特に(両将軍のもとへ)侍従を御遣わしになって、思召しを伝えさせられたのであります。

 

  御承知の通り野村大将は片眼で、植田大将は跛(びっこ:片脚が不自由なこと←戦後の、偽善に満ちた言葉狩りのため、差別用語なるものに区分けされ使われなくなった言葉のひとつである)であったのであります。

 

  そこでこの二人は怪我をして居るから、何時何処(いつどこ)に休息しても差支えないから、形式に拘泥せずに、無理のないようにさせよという所の有難い御下命があったのであります。

 

 大将、非常に感激した次第であります

 


                                        

 また、在外使臣(外地駐在の外交官)の帰朝されたような場合にも、外国に居ります日本臣民に対せられて、屡々御軫念(ごしんねん:陛下が御心配なさり、御心を痛め給うこと)の御下問がおありになります。

 

 これは慥(たし)アメリカ沿岸の某所のことと記憶いたしますが、何処か病院を建てたいと、この地の居留民の間に企てがあったことが、天聴に達したのであります。

 このことをお聴きになりましてから、この建設に御下賜金があったこともあります。


 こういう風に国内ばかりでなく、矢張り世界に散在して居られます日本臣民に対しても、普(あまね)
く御軫念あらせられることを拝するのであります。


 それからまた地方行幸あるいは葉山あたりへの御出ましの時でもありますが、その地方から魚であるとか、あるいは鳥のようなものを献上になることがよくあるのであります。


 その場合は一度御覧になりました後に、大抵それは、魚あたりは海へ御放しになりまして助けてやるという、洵その仁、禽獣に及ぶといったような思召しを拝するのであります。

 

 決して生きて居るものを御覧になりまして、それを食膳に御供えになることはおありになりませぬ。

 

 

 

 

 

 御 質 素

 

 


 それから、御仁徳の中のこれは、御質素のことでございます。

 

 陛下は、洵に御質素であらせられるということであります。

 

 御調度品にしましても、大抵洗濯の出来ますものは数回させられるのであります。

 

 それから、御品物は殆ど日本品を御使用になります。これは皆、国産御奨励の思召しと拝するのであります。

 

 御洋服地の如きものも実に恐れ多いことではありますけれども、矢張り日本品を御使用になりますので、我々が西洋の品を使いました場合等は、甚だ恐懼に感ずることが度々(たびたび)あります。

 

 それから御時計も日本品を御使用になって居るのでありますが、勿論貴重な色々な外国品もおありになるでしょうが、御白身は一向そういうものは御使いになりませぬ。極く質素なものを御使用になって居られます。

 

 今御使用の御時計も腕時計を御使用でございますけれども、十五、六円のクロームの日本製であります。

 多分これは服部(はっとり:服部時計店 現セイコーホールディングス株式会社)あたりの製造だと思います。

 

 よく合うと仰せられまして、始終御使用になって居られます。そういう風で、一向華美は御好みになりませぬ。

 

  一切金ぴかなものはお嫌いと申してもいいかも知れない位な、地味な御趣味でございます。

 

  あるいは皆これは、天下の華美をお戒(いまし)めになるのではないかという風にも拝察され、洵に恐懼致す次第であります。


 それからもう一つ、茲(ここ)に御食事が御質素のことに就て申し上げます。

 

 これは甚だこういうことを申し上げて恐れ多いことでありますけれども、世間に相当こういう方面には、誤解もあることと思いますから申し上げる次第であります。


 陛下のお食事は、勿論公式の御陪食や何かの時には相当立派な御馳走を賜るのでございますけれども、御平生一回は和食、一回は洋食というように承っております。

               

 それで時に依りますと、侍従長あるいは侍従等も、御相伴(おしょうばん)を賜ることもあるのであります。

 

 その時に色々拝見致しまして、洵に恐れ多く成じまするのは、陛下の常に御用いになりますのは大体、一汁三菜と申しましたならば適当かと思うのであります。

 

 甚だ恐れ多いことでありますけれども、我々の平生の食事と何等異るところはございませぬ。

 

 それで世間では、陛下が召上るのでありますからして、御馳走は定めし沢山あるであろうと、こう思うのも無理からぬことでありますが、決してそうではありませぬ。

 

 そういう次第でありまして、萬事御用度(ごようど)の上に於て、如何にも御質素に拝します。


 
それで今上陛下は御内廷の御費用を御節約になりますことは、相当多額に上るのであります。

 

 それで常に無駄を省け、無駄をしないようにということは再々伺うのでありますが、洵にその通り、御自身は御実行あらせられるのであります。


 それからこれはかつて地方長官に仰せられたのでありますが、よく献上になります書物、写真帳というようなものは、非常に表装が立派であります。

 

 それは立派過ぎる、それでそういうことは洵に無駄であるから普通の本屋で配布するような品物で宜しいからそう直せということをかつて仰せられました。

 

 これは一方、地方長官にも伝達されたことでありましたが、未だ時には却々(なかなか)そうは行かずに華美なものが、立派な表装で献上になったりしましたのである時、未だ御自分の趣意が通って居らぬなという御言葉を侍従が承りまして、洵に恐懼致しまして、更に華美な物を止めるようにその向に通達したこともあります。

 

 

 極く細かいことのようでありますけれども、実はこの中に洵に御仁徳の含まれて居ることでありまして、かく御節約になりました多額の御費用は、これを学術研究あるいはまた、社会事業の御奨励に当てさせられまして、そう御実行に実はなって居られるのであります。

 

 この度も最近に、学術振興会に五萬円か御下賜のことを二、三日前の新聞で拝見致しましたが、これらも皆、御節約になりました御費用を当てさせられて御出でになることと拝察するのであります。

 

 如何にもかくの如き御仁徳を拝しまして、皆々恐懼感激した次第であります。

 


 それからこれは、陛下の洵に無欲であらせられる一つの例を申上げたいと思います。

 

 無欲で居らせられますから、非常に公平無私で御出でになります。

 

 

 これはもう大分前になりますけれども、先年帝展に行幸あらせられた時であります。

 

 色々な美術絵画を御覧になりまして、その時、これは大変よく出来ている、あるいはこの彫刻は上手であるという御批評を承ったのでありますが、それで御買上げのことになりまして、陛下の思召しに叶ったものはどれか御指定を願おうと致しました。

 

 御希望の在らせられる所を承りましたが、その時に、それはどれでも宜しい、奨励の為に委員に任して買上げさせればよかろうという思召しでありまして、洵に恐懼感激した次第であります。

 

 その後御買上げの品は、もう皆帝展で選択をしまして、奨励の目的を達するようになったのであります。

 

 

 先ず御仁徳のことに就きましては、大体今申し上げましたような次第でありますから、この辺りで止めておきます。

 

 

 

 

 大正五(1916)年の明治節(明治天皇の御誕生日)十一月三日午前、自らの立太子式に出席するため、陸軍大尉の正装を御召しになり、馬車で宮中に向かわれる迪宮裕仁親王殿下(十五歳)。

 この儀式を経て、大正帝の長子迪宮裕仁親王は、晴れて次代を担う皇太子(東宮殿下)となられたのである。

 御車に陪乗しているのは、入江為守東宮侍従長。

 

 

 

 

 

 

 

  結 び

 

 


 
未だ申し上げたいことは色々ございますけれども、先ずこれで今日のお話は終わりたいと思います。


 平生(へいぜい)側近に奉仕して居りますと、陛下の思召しが洵に深く在らせられまして、御荘厳な御態度を拝しまして、自ら敬虔の念に打たれるのであります。

 

 また色々の方面から拝察致しましても、陛下の御心持ちは、

 

 

 

  (日本は)御自身の国家ではない。

 

 自分一人の国家ではない。

 

 皇祖皇宗から御継承になった、この国家である

 

 

 

 という思召しが非常にお深いように拝するのであります。

 

 そしてこの国家をどうしたならば、立派に統治することが出来るか、またこの金甌無欠(きんおうむけつ:完全で欠点のないこと。また、他国・多民族から一度も侮りや侵略を受けたことのない強国をあらわす例え)の国家をどういう風にして、萬世に伝えていくことが出来るか、また国民の幸福、所謂陛下の赤子すなわち一切の臣民に対し、どういう風にすれば幸福を進めることが出来るか、この思召しが日常深く御軫念あらせられることを拝するのであります。

 

 殆(ほとん)どそういうことの外には、何もお考えになっておいでにならないのではないかという風に、側近者は拝します。

 如何にも宏大なる御聖徳に、感激措く能わざる(おくあたわざる:感激せずにいることはできない)次第であります。

 

 
 今日私の申し上げましたことは、洵に順序もなく、甚だ拙(つたな)い講演でありました。

 

 自分の思う萬分の一も申し上げられないのでありますが、果たして皆さんがどういう風にお感じになられましたのか、洵に恐縮に存ずる次第であります。 

 

 何卒(なにとぞ)陛下の赤子即ち陛下の臣民は、陛下の思召しを体しまして至誠至公御奉公致しまして、それぞれその業務に奮励努力せられんことを切に希望する次第であります。

 


 これを以て私の講演を終ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

(終わり)

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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日本国の肖像:その四十二 天皇と大御宝 その二

2012/03/19 18:30

 

 

 

日本国の肖像:その四十二 天皇と大御宝 その二

 

 

 

 

 

 

  昭和十五(1940)年四月二十日、紀元二千六百年記念の佳節(紀元節:同年二月十一日)に賜りたる詔書の詔書寫頒布式が、東京地方産業報国連合会主催で多数の出席者を集め皇居桜田門前の警視庁第一会議室にて挙行された。

 

 さらに式終了後、前侍従長で海軍大将の鈴木貫太郎が、「御聖徳に就いて」と題して記念講話を行ったのである。

 

 今回はその二回目。

 

 

 

 

 

 (Google Earth)

 

 

 

 

 

 

 

 (承前)

 

 

 

 

 御 日 課

 


  それから十時から、その日の御日課を行わせられるのでありますが、この御日課に就きましては時に依り御変更があるのでありますが、主として私の奉仕中の御様子を申し上げたいと思います。

 

 

 これには大抵、毎日の御日課の御予定表があります。

 

 

 で午前中に於きましては、水曜日の午前が枢密院会議に当てられるのであります。

 

 それから木曜日が、拝謁の日に当てられるのであります。その他の日は政治、軍事、外交、まあそういう方面の御研究の為に御進講があるのであります。

  

 それから土曜日の午前が、生物学の御研究所に御出でになることになっております。


   このうち軍事に関する事柄は軍令部次長
(海軍)参謀本部次長(陸軍)が一週間おきに交代で御進講を申し上げております。

 

 それから外交の方は松田(松田道一)博士が、この方は元外務省におられまして、在外の大使としてお勤めになられた方であります。一週に一回、御進講を申し上げております

 

 それから政治の方の向(むき)は清水清水澄日本人の肖像 2010/03/21 付の稿で採り上げている博士、今枢密顧問官であります。その方が御進講を申し上げております。

 

 

 

 

 清水澄(しみず・とおる)

この写真は東宮御学問所御用掛時代

 

 

 

 

 

 

 

 そういう風に、この毎週の午前はずっといろいろの御研究が多いのであります。

 

 一寸(ちょっと)ここで(聴講の皆様に)御注意申し上げておきたいことがございまして、それは(陛下の)生物学の御研究であります。

 

 ただ一週に一回、土曜日の午前になされるのでありますが、以前におきましては世間では、陛下は生物学ばかりおやりになっているというような誤解をなさる向きがありまして、時にいろいろ侍従長に忠告をしたような方々もあったのでありますが、これは大変な誤解でありまして、以前から長い間ただ一週に一回、土曜日に御研究にならせられるだけのことなのであります。

 

 しかしこのことは又後でお話申し上げますが、こういう誇張がなされましたのは、多分そういう方面の学者の方々が(陛下が)生物学をなされるということを非常に喜んで、誇大に吹聴されたものではないかと思うのであります

 

 事実は、ただ土曜日の午前、御研究になるだけであります。

 

 日曜日は別に御日課は御有りになりませんが、時々吹上御苑に御出ましになりましたりして、一日御愉快に御過しになることの様に拝察致します。

 

 

 

 

 

 吹上御苑

 

(Wikipedia)

 

 

 

 


 それから午後に於きましては、毎日大抵二時から四時の間に御運動が御有りになります。

 

 御運動は御承知の通り、今日の時勢では余り宮城外に御出ましになるということも御有りになりませぬ。

 

 自然、御乗馬とゴルフをなされるのであります。

 

 しかしながら、最近はゴルフは少しもなさらぬ様に拝します。

 自然御乗馬だけでございます。

 

 御乗馬の方は、なかなか御達者でおいでになりまして、随分障碍物飛越なども御好みになり、御実行になるのでございます。

 

 しかし宮城内は、この吹上御苑の方から元の本丸跡あたりまで相当御運動になる場所がございますから、駆け足で宮城内を御歩きになっても差支えない相当の余地がございます

 それから雨が降りますと蓋い(おおい:屋根付き)馬場がありまして、そこで矢張り、御乗馬の御運動があります。

 

 努めて御運動はなさいますが、今日非常に御忙しいのでいかがでございましょうか、充分な御乗馬の御運動すらなかなか御難しいのではないかと御心配申し上げる次第であります。

 

 

 

 

 御 政 務

 

  

 それから御政務は、この、今申し上げました時間外に於きまして随時に御執務でございます。

 

 書類はなかなか多くございまして、内閣あるいは宮内省から捧呈致します書類を、一日の分量で勘定致しますと二、三十通は大抵ございます。

 

 まあ午前の方は少いのでありますが、午後四時頃から集まりますものはなかなか大きな量になります。

 それで大抵御昼の御食事後一回、それから五時から六時迄の間に書類の御処理をなさいます。

 

  この書類の御取扱いを拝見放しますと、甚だ恐れ多いことでございますけれども、洵(まこと)に迅速に書類を御点検になりまして、重大な書類になりますと、よくそれを御一読遊ばされまして、そうしてその上で御自身で御裁可になるものは御裁可の御印を御押しになります。

 

 それから、御署名を要するものは御暑名になるのでございます。

 

 皆、ひとつひとつ、そのようなことは御自身でなされるのでありまして、決して侍従やその他の者に御命じにはなりませぬ。

 

 洵(まこと)にこの点は、御厳格の御執務振りであります。

 

 それを以ちましても、大権を御総覧になる思召しのはっきりしていることを拝察するのであります。

 

 で、この書類に致しましても政府から参ります書類又は軍部から出ます処(ところ)の書類、報告書あるいはその他のもの等非常な数に上りますので、一年に積もりましたら五、六千通はあるだろうと思われるのであります。

 

 洵にそれだけを御処理になりますだけでも容易なことではない様に拝するのでありますが、しかし陛下は、摂政宮殿下の御時代から既に今日まで、御政務を御執りになっておられますので、とても御処理が御早いのであります。

 

 それでありますから多数の書類が参りましても、格別御疲労を感じる様な御様子も拝せられませぬ。

 

 

 しかし平常五時から六時迄の間、一時間で大体御覧になるのでありますけれども、沢山集まった場合には、また六時からその後七時迄も御掛りになるのでありまして、それが御済みにならなければ奥へ御入りになりませぬ。

 従ってそういう時は、御食事も御遅れになる様な次第でありまして、洵に恐懼致す場合が度々(たびたび)ございます。

 


 それから拝謁のことでございますが、先刻木曜日の拝謁のことを申し上げましたが近年非常にこれも多くなりまして、恐らくは年に積もりまして三、四千人の数に達してはいないかと思うのであります。

 

 また外国人の謁見も、大分増して参りました。

 

 で、これは相当の時間が掛かります。 

 

 外国人の謁見に対しましては、矢張り一人一人、御言葉を賜ります。

 

 なかなかその御日常を拝見致しますというと、いかにも御多忙であらせられるのであります。


 御日課に就きましては、この位にして置きます。

 

 

 

 

 御 祭 典(宮中祭祀)

 


 次ぎに、宮中の御祭典のことを申し上げたいと思います
(太古より、天皇陛下の御本務はここにこそ存する)

 

 今上陛下に於かせられましては、御祭典の御事は非常に御鄭重に遊ばされます。

 

 それでこの、大御心の敬神崇祖の範を国民に垂れさせられることは勿論のことでございますが、恐れ乍(なが)ら拝察致しまするのに、洵にこの皇祖皇宗から御継承になりました国家を常に立派に御統治あらせられるということに就いて、非常な御決心の思召しが拝せられるのでありまして、いとも有難いことと、常に我々感激致している次第でございます。

 

 それでありますから 今上陛下には殆(ほとん)ど御代拝は御立てにならずに、御親祭の場合は勿論でありますが、その他の大小の御祭典にも常に御自身御親拝あらせられるのであります。

 

 その御祭の中には大祭は勿論でありますが、その外の小祭と申しまして、歳旦祭・新年祭あるいは賢所の御親祭、それから御歴代天皇の式年祭、あるいは例年祭という様な御祭がたくさんございまして、この上に毎月一日、十一日、二十一日、この三日は御旬祭と唱えまして、矢張り御親拝になるのでございます。

 

 そういうことでございますから、一年中積もりますと六十数回の御祭典をなされることになります

 

 とにかく、少しもこの御祭ということにつきましては、御緩(ゆる)みなく、洵に御厳格に御執行あらせられるのであります

 

 この御祭の度毎(たびごと)に国家の安寧、国民の幸福とを御祈りあらせられるのであります。

 

 

 このことを考えまして、洵に有難く、恐懼感激に堪えない次第であります。

 

 

 


 
国 務 の 御 執 行

 

 

 それから次ぎに、国務の御執行振りに就いて申し上げたいと思います。

 

 陛下の御務め、即ち御天職、これは洵に御多端なことでありまして、普通国務と申しましても、事柄に現れて参りますことは、即ち拝謁、上奏文書等に依りて御裁可を仰ぎ、あるいはまたいろいろの御報告を捧呈致します等、それらが国務として取扱上現れるのであります。


 で、このことに就きまして、どういう経路で取扱われるかと申しますと、これは侍従職と武官府、このニつに依って御取次ぎを申し上げているのであります。

 

 即ち侍従職で取り扱っておりますことは、一般政務に関係する方でありますからして、内閣あるいは各省から参ります書類、あるいは拝謁のことの取扱い、また枢密院、内大臣府、宮内省、会計検査院、行政裁判所、あるいは貴衆両院等から参りますところのいろいろの書類の取扱等、これらは侍従職に於て取扱いをしまして、それを侍従長がひとつひとつ御取次ぎしている次第であります

 
 それから軍事の方の側は、陸軍省、海軍省、参謀本部、軍令部、それから教育総監部、各軍隊の司令部等から参ります所の事柄は、これは侍従武官府で取り扱っております

 

 これは侍従武官長が御取次ぎ申し上げることになっております。

 

 この区別は洵に厳格に御沙汰になっておりまして、従って軍隊に関係のものを侍従職で取扱われたり、あるいは軍事以外のものを武官府で取扱われるという様なことは決してないのであります。

 

 しかしながら時に依ると世の中では、これが混同されているかの様に申しました時もありましたが、既にこのことは厳格に御沙汰になっておりますので、判然区別せられてあります


 
それからこの国務御執行のことに就きましては常に迅速に行わせられる思召しでありまして、拝謁を御願い致しますと早速御許しがありまして、時に依りますと御運動を御止めになって拝謁を賜わることも再々あるのであります。

 

 それから今日(こんにち)の様に大事変のあります場合に於きましては、重要な御報告を申し上げることが相当にあるのでありますが、それで豫々(かねがね)そういうことは時を構わず申し上げる様に御沙汰があります。


 それ故に時に依りましては、夜中でも矢張り申し上げる様なこともございます。

 

 それから、親任式の様な重大な事柄に於きましでは、矢張り同様であります。

 

 夜に入ってから親任式を行わせられたことは再々あるのであります。

 

 まあこれは多くは政変の時でありますけれども、ある場合には夜の二時に親任式を行わせられた例もあるのであります。

 そういう風に、陛下が御天職を御実行になるに就きましては、非常に御熱心の思召しで、重大なことは時を移さず御実行になる。

 洵に恐懼感激に堪えない次第であります。 

 

 陛下の思召しを拝しますと甚だ恐懼の至りでありますけれども、その日に起こったものはその日の内に御処理になる思召しの様に拝するのであります。


 随分遅くまでも、お構いなしに御執務あらせられます。

 

 唯場合に依りますと、各省から提出した書類の中に御疑問がありまして、それに就いて御質問があります。

 

 これは場合に依りますと、侍従長が御取次ぎしてその質問を承わる。

 

 物に依りましては、矢張り(各省の最高責任者である)大臣自ら申し上げなければならぬこともあるのであります。

 そういうような場合には、その書類は翌日に廻る場合もあり、あるいは尚遅れることもあるのでありますが、それは例外でありまして、大抵のことはその日の内に御処理になる思召しかの様に拝するのであります。

 

 これらも非常に御勤勉振りを拝する次第であります。

 

 

 

 

 行 幸

 


 次ぎに申し上げますのは、行幸のことであります。

 

 行幸は、これは年中行事の中の甚だ重大なことでございまして、その内陸海軍大演習の行幸、あるいは地方の行幸、これらが一番大きな年中行事と考えられます。

 

 この外に各学校の卒業式に行幸あらせられ、あるいは今日では余り御出ましにはなりませんけれども、元は帝展に行幸になったこともございました。

 その外、そういった種頬の行幸が相当ありますけれども、何んと申しましても大演習の行幸、それから地方行幸が最も大きな事柄であります。

 

 この行幸の場合に御伴を致しまして感じますることは、如何にも御日程が多いのでありまして随分、朝御早くから遅くまで御行動になりますので、嘸(さぞ)御疲れになりはしないかと、随分御心配申し上げるのであります。

 

 しかし陛下に於かせられましては元気旺盛で居られます為に別段御障りのこともあらせられませんが、何んと申しましても、御日程が激し過ぎるのではないかと常に恐懼致す次第であります。

 

 時にはもう少し御緩やかに御願いしたいと思いまして思召しを伺うこともありますけれども、陛下には矢張り国民に希望をなるべく叶えさせてやりたいという思召しが 深く御有りになりますので、一旦お決めになりますと、随分な御困難な御日程でも、それを敢えて御決行にならせられるのであります

 

 それから又、この行幸の際に拝しますることは、陛下の洵に堅忍不抜に渉(わた)らせられる御(おん)ことでございます。

 

 それらの例を申し上げますと、これは昭和七(1932)年の大阪の大演習の際の観兵式の日であります。

 

 その前日まで、多少御風邪気味であらせられたのであります。

 

 ところがその観兵式の朝になりましてから風雨になりましたので侍医辺(あた)りは、また御風邪が御再発になってはと非常に御心配申し上げたのであります。

 

 我々も御心配申し上げたのでありますが、陛下には

 

 

 「いや大丈夫だから観兵式に出る。兵は既に整列して居る筈だ」

 

 

 という御言葉でありました。 

 

 陛下の、御自信の御有りになる御様子を拝見して、遂に皆、その御供を致した次第であります。しかるに、雨はなかなか強くなりました。

 

 しかしその際に陛下は外套を召させられましたけれども、兵が矢張り頭巾を冠(かぶ)らずに整列をしておりましたので、陛下も御頭巾を御用いになりません。

 御帽子からは盛んに水が滴(したた)るのであります。

 

 で、御下着がすっかりずぶ濡れになりました。

 

 しかしながら少しもそういうことはお構いなく、遂に観兵式を御済ませになりました。
 

 式が終わりましてから、直ぐ侍従から御下着の代りを差し上げて御召し替えを願った様な次第であります。

 

 その時の御心持ちも、皆兵は頭巾を冠(かぶ)って居らない、御自分御一人頭巾を用いるということは忍びないという思召しであった様に拝察するのであります。


 それからまた一昨年、北海道の陸軍大演習の場合にも矢張り同じ様に雨が大分降っておりましたけれども、外套は御用いになりましても、御頭巾は御冠りになりません。

 又天幕テントの御設けもあったのでありますけれども、矢張り雨の降る処に御出ましになられまして、戦線の有様を御展望になり、あるいは又参謀長の御報告を御聴きになりました様な次第であります。

 

 洵に御勇壮な御有様を、屡々(しばしば)拝するのであります。

 

 それからこれは先年宮城前で、青年学生の数萬の者に御親閲を賜ったことがありまして、その時にも、この日は相当風もありました。

 

 それから恰度(ちょうど)御親閲の前に、小雨が降って参りました。

 

 寒くはある、侍従から引廻し(袖がなく、裾の広い合羽:カッパの別称。衣服の上から引き回して着用することからこう呼んだ)を差し上げたのでありますが、その時には、そのまま、何んとも仰言られずに御着けになりました。

 

 しかしながら一度壇上に御立ちになりまして、御親閲が始まることになりますと、すぐに引廻しは御外しになりまして、足許の壇上に御置きになりました後、雨の降るまま、ずっと長い間敬礼を御受けになり、御親閲を終わったのであります。

  

 これはまあその当時、相当皆さんも御承知のことだろうと思いますが、青年学生の感激は非常なものであったのであります。

 

 それから地方行幸の場合に於きまして、これも同じ様に、学生や地方青年等の御親閲をなされるのであります。

 

 なかなか数萬の人数でありまして、その時によって数も差はございますが、三十分から一時間も掛るのであります。

 

 これは勿論、毎年の陸軍の東京で行わせられる観兵式以上の人員、あるいは場合に依りますと、倍も人数は多くありましょう。

 

 相当に長くかかるのであります。

 

 ところがこの間敬礼を御受けになりますのに、直立不動で御立ちになりますが、少しも御足を御動かしになるようなことはなく、御姿勢はもうそのまま、ずっと長い間御続けになるのであります。

 

 これはなかなか容易なことではないのであります。

 

 私も軍人で相当そういう場合に、直立不動で立つこともありますが、そう長い間堪えることは出来ません。

 

 矢張り幾らかその壇上にあって足を踏みつけて見たり、あるいは少し身体の重心をどっちかに寄せるというような、幾らかの動作は致すのでありますが、陛下にはそういう様なことは少しも拝見致しません。

 

 如何にも、御修養の御積みになった御有様を拝するのであります。

 

 そ長い間、もう、少しも御動きになりませんから、壇上に敷かれた布の上に御足の型が残りますが、そっくり、ただ一つのそのところへ跡が残る様な次第であります。

 

 ある地方では、それを記念に何か型を作り、残された様に承っているのであります。

 

 洵に御見事な御姿勢であります。

 

 

 

 

 御 学 問

 


  つぎに陛下の御学問と、御修養に就きまして申し上げたいと思います。

 

  陛下の御学問のことは御承知の通り御幼少の時代には学習院の初等科を御卒業になりました。

  それから中等科にお入りになりまして、その中等科に御出での間に東宮)御学問所が出来まして、それに御移りになったのであります。

 

  その御学問所に於きまして、中等科の御教育を御卒業になり、また高等科の御教育を御受けになりました。

  それから大学の御課程という様に、矢張り普通の学級的に御教育を御受けになって御出ででございます。

 

  しかしその間に御学問所の方針で、帝王学と申しますことが加えられて、御研鑚になりました。

 

 

 

 


 

 

 

 

東宮御学問所幹部・御用掛一同

 

 東宮御学問所は大正三(1914)年四月一日に新設され、大正十(1921)年三月一日、裕仁親王殿下御卒業をもって閉校となった。

  この写真は、閉校を間近に控えた大正十(1921)年二月十八日に撮影されたものである。

  

  

 

 (前列九人右より)

 御用掛:数学担当  吉江琢兒東京帝国大学教授

   御用掛:歴史担当  白鳥庫吉東京帝国大学教授、

 御用掛:法制経済担当  清水澄行政裁判所評定官、

   評議員  山川健次郎前東京帝国大学総長

 総裁  東郷平八郎元帥海軍大将

   副総裁:  濱尾新東宮大夫、

 御用掛:習字担当  入江為守東宮侍従長、

   御用掛:倫理帝王学)担当  杉浦重剛在野(!)の教育者

 評議員:軍事講話担当  宇垣一成陸軍中将

 

 (後列九人右より)

 御用掛:武課体操担当  加藤眞一陸軍歩兵中尉

   御用掛:美術史担当  瀧精一東京帝国大学教授

 御用掛:国文漢文担当  飯島忠夫学習院教授

   御用掛:フランス語担当  土屋正直東宮侍従

 幹事:  小笠原長生海軍大佐、

   御用掛:馬術担当  壬生基義陸軍騎兵中佐

 御用掛:地理地文担当  山崎直方東京帝国大学教授

   御用掛フランス語担当  山本信次郎海軍大佐、

 御用掛:理化学担当  和田猪三郎東京高等師範学校教授

 

   (肩書き、階級はすべて撮影当時)

 

 

 

 


 

 

 

 

  それで御学問の方は御学問所時代のそれだけではなく、その御卒業後に於かれましてもまた、摂政宮殿下で居らせられた時も、御即位後に於かせられましてもずっと御学問は御続けになりまして、常に御進講を申し上げて居るのであります。

  それでありますから、御学問をなされましたその分量は、非常な数に上って御出でになります。

 

  勿論普通帝国大学で、法科辺(あた)りで修められる処の法律、経済、行政学、国際法、そういう様なことは、皆、それぞれの大家が御指導申し上げまして、長い間御進講申し上げたのであります。

 

  それから古典、即ち和漢文学の方面の事柄に就きましても、四書五経という様な方面も、随分御進講になって居ります。

  まあ、これらが即ち帝王学という方に属して居ったのだろうと思います。

  で、その中で私の気附きましたことは、陛下は地理と歴史に大変御詳しいことであります。

 

  陛下は一体御言葉の少ないお方であります。

 

  しかしある時思召しを拝しまして御話を承りました時に、如何にも明確なる歴史上の御意見を伺いましたので、余程これは歴史に御堪能の御事と拝察いたしまして、歴史はどういう様にして御学びになりましたかとお伺いしたところが、陛下の仰せられるのに、御進講申し上げたのは白鳥庫吉(しらとり・くらきち)博士であるとの御言葉であつた。

 

 しかし、御自身で箕作元八(みつくり・げんぱち)博士、その箕作博士の著書は凡て見たと仰せられになりました。


  
その後(陛下の)御書棚の整理を拝見致したことがありましたが、矢張り御覧になりました箕作博士の著作十数冊がございました。

 これは色々の歴史の著作でございます。その全部を御覧になって居る。

 

  これはもう御承知の通り箕作博士は、当時の歴史家で、著作も多いし、それから殊に箕作先生の本は世界の興亡盛衰を論ずるにも、常に道徳的見地から論じて居ることが多いのであります。

  それを全部御覧になりましたので、洵に陛下の歴史の御識見の深いことが拝察せられます。

 

  また世界の歴史にも日本の歴史にも御詳しいので、明治大帝の御伝記の如きも二、三百冊あったのでありますが、これはまあ毎回御伝記の出来ます度に御手許へ差上げて御覧を願うのであります。

 それらも全部、御目通しになって居られます。

 

 それであるから、明治天皇御時代のことも実に詳しく御承知であられます。

 

 それから地理の御明るいのは、之は生物学を御研究になる間に、生物学は各国のいろいろのものを総合して問題が出て参りますからして、自然地理にも大変御詳しいのであります。

 

 殊に非常なる御記憶力を御持ちのことでございますからして、甚だ恐縮な次第でありますけれども、恐らくは側近者の間に陛下程の歴史家も、地理学者も居らぬと思うのであります。

 それに先刻申上げました様に、箕作君の著作にはいろいろの教訓がございますので、帝王学と致しましても、非常によい御参考の御資料と拝察致すのであります。

 

 このことは余り世の中に知られておりませんでしたが、偶々たまたま側近に従事しまして気付いたことでございます。

 

 (まこと)にこのことは有難いことと存ずる次第でございます
   

 

 

 

 

 

 

 (以下 その三に続く)

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日本国の肖像:その四十二 天皇と大御宝 その一

2012/03/11 17:35

 

 

日本国の肖像:その四十二 天皇と大御宝 その一

 

 

 

 

 

  東京地方産業報国連合会は昭和十五年四月二十日、警視庁第一会議室に於て、紀元(神武天皇即位紀元)二千六百年記念の佳節(紀元節:同年二月十一日)に賜りたる詔書寫頒布式を挙行した。

 

 そして同式終了後引き続いて、元侍従長で海軍大将の鈴木貫太郎(当時七十二歳)

 

   「御聖徳に就(つい)て」

 

なるテーマで記念講話を行った。

 


 以下の講話原稿は、この記念講の速記録に基いて起こされ、読み易く編纂されたものである。

 

 原稿は、あらためて鈴木貫太郎の校閲を経てようやく限定出版(非売品)の運びとなり、四月二十日の詔書寫頒布式に参列し鈴木の講話を聴講した人々にのみ、昭和十五年八月吉日配布された。
  

  ※ここに言う詔書とは、昭和十五(1940)年二月十一日、紀元二千六百年の紀元節に天皇陛下より賜ったものを指す。  

 御名御璽のある詔書原本はもとより一枚しか存在しないため、(写:うつし)を各官庁、学校、法人、団体等に頒布するために、代表者を集め催された式典である。

 

 

 

 

  鈴木貫太郎

 

  慶応三年十二月二十四日(1868年1月18日)生まれ、昭和二十三(1948年)年四月十七日歿

 

 父は関宿(せきやど:現在は千葉県野田市に編入)藩士。貫太郎は関宿藩の飛び地が存在した現在の大阪府堺市で誕生、終焉の地は本籍地の千葉県関宿。

 

  海軍軍人として日清・日露の戦役において、ともに最前線の戦場に出陣、大功を挙げる。その厳しさで鬼貫(鬼の貫太郎)などと部下から呼ばれ畏れられた。のち海軍次官、軍令部長、聯合艦隊司令長官等顕職を歴任。海軍大将

 

  予備役となり軍の第一線を退くや、昭和天皇に望まれ侍従長に就任(在任期間は昭和四年一月から昭和十一年十一月。昭和十一年、二・二六事件に遭遇し瀕死の重傷を負うことがなければ、さらに長く務めたのではないだろうか)。

 

 その人格と識見とにより、先帝昭和天皇から絶大な信頼を受ける。

 

 また鈴木は最初の妻を亡くし、後年足立たかという女性を後妻に迎えるのであるが、かつて幼稚園の教諭として働いていた足立たかは、多数の候補者のなかからこの女性ならば、と選び抜かれ、十年にわたり幼少の砌の皇孫迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)と弟君達の乳母を任せられた女性、育ての母を務めた女性であった。

 

 大東亜戦争末期の混迷の時期、既に高齢(七十七歳)に達していた鈴木であったが、昭和天皇の懇願を拝し、昭和二十(1945)年四月、内閣総理大臣に就任する。

 

 命を削るような終戦工作は難航を極めることになったが、幸い悲惨なハードランディングを回避することができたのは、昭和天皇の信頼に命懸けで応えようとした多数の人々がいたからである。

 

 就中、終戦宰相鈴木貫太郎の功績は特筆大書されねばなるまい。

 

 八月十五日の玉音放送直後、役目を終えた鈴木内閣は総辞職した。

 

 自ら生涯最後と信じた、まさに乾坤一擲の御奉公を終えた鈴木貫太郎はたか夫人とともに関宿に引っ越し、晩年は晴耕雨読の日々のなかに身を置いた。

 

  昭和二十三(1948年)年四月十七日歿、享年八十歳。

 

 

 

 (国立国会図書館:近代日本人の肖像)

 

 

 

 海軍大将正装の鈴木貫太郎

 

 (Wikipedia)

 

 

 

 

 

 

「御聖徳に就(つい)て」

 

海軍大将鈴木貫太郎閣下 謹話

 

時:昭和十五(1940)年 四月二十日(土)

於:霞ヶ関桜田門前の警視庁第一会議室

 (尚、原文は旧漢字仮名使い)

 

 


 
今日は安倍(源基)警視総監殿の御依頼に依りまして、御聖徳に関する御講話を皆様に申上げる次第であります。


 私は昭和四年の初めから昭和十一年の末まで八年の間、侍従長と致しまして今上陛下の御側近に奉仕しておりまして、余り御近く奉仕申し上げました関係上、洵(まこと)に恐れ多く感ぜられますので、御聖徳に就きましては滅多にお話しをして居りませんが、今日は東京地方産業報国連合会に於きまして、詔書寫しの頒布式を御挙行なりましたその後で、話す様にと云う御依頼でありましたので、洵に意義深いお企(くわだて)と存じまして、喜んで御引き受けした次第でございます。


 此処(ここ)にお断り申上げて置きますのは、私の講演を速記されまして、いずれまた聴講の方々にお頒(わか)ちになることと思いますが、どうかそれを新聞雑誌等に転載されることのない様に、皆様に御願いして置く次第でございます

 

 実は、御聖徳の一般に知れ渡ることは洵に結構なことと思うのでありますが、如何にも私には恐れ多く感ずるのでありまして、それを公開するということは忍び得ない気持が致すのであります。

 

 御話だけ申し上げまするけれども、これを公開することだけはお許しを願いたいのであります。

 (天上に居られます鈴木貫太郎閣下、時も流れましたので、nobbyによるネット上への転載をお許しください)


 それから自分の講演に先立ちまして、一つ御紹介を申し上げたいことがございます。

 

 それは御聖徳のことに就いて、昨年の天長節(四月二十九日、昭和天皇の御誕生日。今上陛下の御誕生日は十二月二十三日)、帝室会計審査局長官の木下道雄君が講話された事柄でございます。

 之は事柄は洵に簡単でございますけれども、洵によく御聖徳を述べられまして、洵に感動深いことがございますので、既に御覧になりました方々も御ありになるだろうと思いますけれども、先ずそれを御紹介致します。

 

 


 
それは「軍艦榛名の後甲板上に拝する聖なる一瞬の光景」之は昨年、自由学園の天長節の奉祝の式に於きまして木下君が講話されたことであります。

 

  木下君は、今上陛下(昭和天皇が東宮(皇太子)で居らせられます御時に既に東宮侍従と致しまして、御即位後の昭和四年まで侍従を勤められまして、其の後宮内大臣官房の総務課長にありました時に、恰度(ちょうど)九州行幸の際、軍艦榛名の後甲板上に於いて遭遇した事柄でございます。

 

 その際木下君の述べられましたことを、そのまま此処(ここ)で朗読を致しますから御聴きを願います

 

 

 

 


 

 鈴木貫太郎による朗読)

 

 

 軍艦榛名の後甲板上に拝する聖なる一瞬の光景


 
  本日(昭和十四年四月二十九日)天長節奉祝の厳粛なる式にお招きに預かり、陛下御左右の御事につきまして私の拝し得ましたことの一端をお話する機会を得ましたことを光栄に存じます。


 私は陛下の御民の一人としてこの時代に生きることの譬(たと)えがたき喜びを実例を挙げて皆様とともに頒ちたいと思います。

 話は拙(つたな)いのですけれども、どうか意のあるところをおさとり下さって、ほんとうにこの大御代に生きる喜びと想いとを深くし、各々(おのおの)その業に励む決心を一層固められるのならば、これこそ天長節に当たり、私共から陛下に差し上げる何よりのお慶びの印でありましょう。

 


 只今からお話することは私が他人から伝え承(うけたまわ)ったことではなく、私が現にこの眼で偶然拝しました一つの聖なる光景、それは鹿児島湾上夕闇に包まれた軍艦榛名後甲板上、あたりに人なく声なき一瞬の光景についてでありまして、私は我が日の本のおのづからなる姿を、この時ほどありありと眺めたことはないのであります。


 お話の本筋に入るに先だち、私は一つの随筆を皆様に御紹介して置かなければなりません。

 


 私の同窓に三宅正太郎君という人があります。

 

 今大審院大日本帝国憲法下における最高裁判所判事をしておられる人でありますが、その人が昨年一つの随筆ものを出版されました。

 その本の中に「宮城前」という一篇があります。その内容はと申しますと、ドイツ東プロイセンのある裁判所に昔勤めていた一人の老判事が、昨年旅行の途中日本に立ち寄り、一日旧友の三宅君を訪ねました。

 

 ある日二人は相携(あいたずさ)えて宮城遥拝に出掛けたのでありますが、丁度(支那)事変中のことであり宮城前の広場には、風にひらめく日の丸の旗、鳴り響く勇ましいラッパの音、多勢の人が雑沓し、出征の若い人たちは親兄弟や友人に囲まれて、おごそかに頭(こうべ)を垂れ、宮城を拝し、心からのお別れを陛下に申し上げている。

 

 

 

 

 

(Google Earth)

 

 

 


 その雑沓の中で、三宅君達二人は一生の中でも滅多に遭遇することのないような感激に胸を打たれて、この真剣な場面を眺めておったのですが、ふと見ると群衆を少し離れた所に三人連れの親子が祈っております。

 

 出征する兄とその妹と父親の三人、今しがた田舎から東京駅に着いたのでありましょう。旅の荷物を傍らに置き、遠慮がちにお壕の玉垣の側近くへ寄って一心に祈っているところです。

 

 この光景を、先程から黙ってじっと観ていたドイツの老判事は、声をのんで、そっと三宅君に尋ねました。

 


 
「皇帝陛下はあのお城の窓から、この光景を御覧になっておられるのか」

 

 

と、お壕の向こうに聳える白壁の櫓(やぐら)の窓を見上げて、こう尋ねました。

 

 

 

 

 

 正門石橋と櫓(石造りの正門石橋の奥に、鉄製の橋=正門鉄橋=二重橋が架けられている。下の写真でも、手前に見える正門石橋越しに、二重橋の手すりの部分が見える。昭和三十九年、二重橋が石橋を経て鉄橋に架け替えられる前の木造橋時代までは、橋桁が上下二重構造に造られていたことから二重橋と呼ばれていた。二重構造ではなくなった現在でも、その名が残っている)

 

(Wikipedia)

 

 

 

 正門石橋を指して二重橋と呼ぶ向きもあるが誤り

 

 

 (Google Earth)

 

 

 

 

 

 察するところ老判事は、民衆のかくまで敬虔(けいけん)な熊度は皇帝陛下が御覧になっておいでになる前でなければ見られる訳がないという考えが浮かんだのでありましょう。

 

 その瞬間に三宅君の頭に閃いたことは、眼を瞋(いか)らせ腕をふるって民衆の前に獅子吼する独裁者の姿でした。

 またそうしなくては国民の心をとらえることの出来ない国と、我が日本の国体との著しい相違でありました。


 三宅君は決然として、

 


  
「否」

 


と答えながら、世にまたと比類なき我が国体の有難さに感泣して、再び謹んで宮城を拝したと、こういう話の一篇であります。


 陛下が御覧になっておいでになろうが、御覧になっておいでになるまいが、日本国民の忠誠には変わりはない、それが日本の国体の尊いところであるというのが、「宮城前」の骨子であると思います。

 
 私がこれからお話いたす事柄は、三宅君の「宮城前」に対する応答とお考え下さってもよろしいのです。三宅君にお会いいたしたならば、是非このお話をしたいと思っておりますが、未だその機会がなく、皆様に先にお話することになってしまいました。

 

 


 昭和六(1931)年の秋のことでありますが、熊本に於て陸軍特別大演習が陛下御統監の下に行われまして、私も供奉の一員としてお伴いたしてまいりました。

 

 大演習終了後陛下には鹿児島市に行幸あらせられ、御帰りはそこから軍艦榛名(はるな)で海路を横須賀港へと向わせられるのであります。


 十一月十九日、御乗艦時刻は午後の四時過ぎでありました。

 

 御召艦は日没とともに錨を上げ、県民の熱誠なる奉送裡に、桜島を後に鹿児島湾を静々と南下して行きます。

 

 

 

 

 

 雄渾なる桜島

 

(Google Earth)

 

 

 

 

 

 間もなく夕食の時刻がまいりましたので、私共供奉員一同は食事を致しておりましたが、私は海上の様子が気に懸かりましたので、早く食事を済ませて皆より先に後甲板に馳せ上りました。


 後甲板と申しますのは、軍艦旗の立っている後方の甲板で、かなり広く、大きな大砲の備え付けてあるあの甲板をいうのです。

 

 榛名では最後方の司令長官室が陛下の御座所に当てられておりましてそれは後甲板の真下に位置しておりますが、司令長官室からは後甲板へ専用の階段が通じておりますので、陛下には随時御自由に後甲板にお出ましが出来るようになっておりました。

 

 後甲板には陛下の御乗艦中と雖(いえど)も何等特別の装飾はなく、一個の海図の机と数個の脚付の望遠鏡と簡単な椅子が五、六脚あるのみでありますが、陛下はこの後甲板が殊の外(ことのほか)お好きで御用のおありにならない限りは、と申し上げてもよろしい位、いつもここにお出まし遊ばされます。


 さてお話が前に戻りまして、後甲板へと急いだ私は、陛下は未だ御食事を御済ませ遊ばされぬであろうと思いながら別の階段を馳せ上ったのです。

 

 もはや日はとっぷり暮れ、月はなく、海上は真っ暗で、甲板上には小さな電灯が只一つ灯(とも)っているばかり、電灯の下ならともかく少し離れたら人の顔もよく判らぬ位の夕闇に甲板は包まれておりました。

 甲板には誰も未だ出ておらぬとばかり思い込んで馳せ上った私は、思い掛けなくも間近な夕闇の中にただ御一人、陛下の御後姿を拝したのであります。

 

 右舷(薩摩半島側)の手摺り近くに海の方をお向きになって直立遊ばされ、今し方望遠鏡から御手を離させられたかに拝し、畏くも御右手を挙げさせられ、何物にか御挙手御会釈の御姿であります。


 思わず私も、陛下の御覧遊ばされる方向を遥かに凝視致しましたが、夜闇の外何も見えません。

 

 すぐ私は側の望遠鏡に眼を当てました。時刻から推し測って、艦は未だ依然として鹿児島湾内を南下している筈です。

 そして艦の航路は湾の中央線に当たりますから、左舷大隅の海岸にも右舷薩摩の海岸にも六浬浬=海里:1カイリ=約1,852m)位離れている筈です。

 そんなことを考えているうちにだんだん眼が慣れてきて、レンズにうつる山々のぼんやりした姿をとらえることが出来ました。

 

 

 

(Google Earth)

 

 

 


 艦は今、薩摩国指宿(いぶすき)の沖合
の辺りを航海しているのでありましょう。

 

 尚も眼を凝らして覗いておりますと、その山々の下に海の色と陸の色との境に海岸線が見えるようになりましたが、その海岸線一帯に赤い灯の流れが連綿として果しなく続くのが見えます。

 

 更にまた少し小高い所に、何丁おきかに点々と海岸一帯連続して、大きな火のかたまりがぼうっと煙を上げているのが見えてきました。
                
 この時、初めて私は万事を了解したのであります。

 

 遥かあの海岸地方に住む人達が、今頃は御召艦が自分達の村の沖合を御通過になるに相違ないと思って、夜分艦影を拝することは出来ませんけれども、山々には篝火(かがりび)を焚き、老いも幼きも悉(ことごと)く海岸に立ち並び、手に手に提灯松火(ちょうちんたいまつ)を振りかざして、海上遥か、陛下在(おわ)しますと思われる方向を伏し拝んで、心からなる奉送迎を申し上げているのであります。

 

 陛下は今し方望遠鏡でこれをお察し遊ばされ、只御一人暗い海上の甲板の上から、遥かにこの村人達に御会釈を賜るところであったのであります。


 彼方の海岸に立ち並ぶ無数の人々の中で、誰かこの有難き大御心を仰ぎ知るものがありましょうか。

 

 私は改めて軍艦榛名の山のような堂々たる姿を仰ぎ見かえしたのでありますが、海岸からはこの巨艦も僅かに二つ三つの灯火としか見えないであろうと真に残念に思いました。

 

 ああ何とかして、陛下の大御心を伝える術(すべ)はないものか・・・無線電信を打っても篝火を焚いているあの人達の耳にまで届くのは恐らく明朝になりましょう、そこで私はせめてもと思いまして、艦長にお願いして艦全部の探照燈に点火し、数条の光芒を以て左は大隅、右は薩摩の山や海岸一帯を隈なく撫で廻して貰ったことでありました。

 


  これが軍艦榛名の後甲板上でゆくりなくも拝した、真に感銘深き一瞬の光景であります。

 

 海上数浬を距(へだ)てて陸から海へ、海から陸へ闇を貫く一筋の真心の光。

 

 拝する者は期せず、陛下御挙手の尊影、陛下、また御言葉もなく闇に向って応え給う。

 

  嗚呼(ああ)何たる荘厳な光景でありましょうか。


 毎年今日、私共は「光遍
(ひかりあまね)
き君ヶ代を」『恵遍(めぐみあまね)き君ヶ代を』と天長節の歌を唄いますが、この歌の詞は決して唯の形容詞ではありません。

 

 私共は皆、大君の御光(みひかり)を、また御恵(みめぐみ)を知らずしていただいているのであります。

 この事は、日本国民たるものが常に心に銘じておらねばならないと存じます。


 私は勤務上毎日宮城に参入致しますので、宮城前に幾百千の国民が熱いお祈りを捧げている光景にしばしば接するのでありますが、その度毎(たびごと)に私の想いは狂わんばかりに燃えて、過ぐる夜の鹿児島湾上の聖なる光景を追って行きます。

 

 皆様は、

 

「国民は祈るもの、陛下は祈られ給う御方」


と軽々しく思ってはなりません。

 

 日本国中、陛下の御祈りこそ最大最深のもの、恐れながら申し上げなければなりません。

 

 遠き古(いにしえ)の神代(かみよ)より、天津日嗣(あまつひつぎ)の御位(みくらい)を代々受け纘(つ)がせられ、我が国治(しろ)しめす日夜の御苦心は只管(ひたすら)祈りに祈り祈りて止まぬ御生活とならざるを得ないものと、恐れながら拝察致します。

 殊(こと)に今日の如く、内外の情勢が容易ならぬ時代にありましては尚更のことです。


 国の為、民の為一刻たりとも大御心を休め給う御時なき陛下に、せめて今日の天長節の日にでも、ほんとうにご緩(ゆる)りと御休息を御願い致したいものです。

 

 しかし、どうすれば私共のこの願いはかなうでしょうか。

 

 どうすれば大御心を安んじ奉ることが出来るでありましょうか。

 

 その方法は唯一つ。

 

 私共国民が一人残らず正しく逞(たくま)しい人間となり、陛下が一番御心配遊ばされる方面を自ら進んで担当し、挺身奮闘各々(それぞれ)その業に邁進して、私共がおりますから陛下、どうぞ御安心下さいませと申し上げることが出来るようにする外に途はないのです。

 

 この奮闘こそ、最大最深の陛下の御祈りに添い奉る私共の祈りに外ならないのでありましょう。


 天長節のこの佳き日に当り、軍艦榛名の後甲板上の光景を皆様にお伝え致しますと共に、自ら省みて私共が陛下の御民として陛下に御誕生日の御祝いの詞を申し上げる資格が本当にあるか、ないかについてお互いに真剣に考えなければならないと思っております。

 

 


 
(朗読ここまで)


 

 

 

 

 以上が木下君の謹話でございます。

 

 これから、私自身のお話を申上げます。

 

 

 

 

 皇 室 の 御 近 状

 

 

 (ま)づ皇室の御近状に就きましては、毎度宮内大臣から詳しい御謹話がございます。新聞にも出て居ります。

 

 就きましてその点は唯今日、天皇陛下、皇后陛下、皇太后陛下、また皇太子殿下を御始めとして、各宮様は御揃(そろ)いで居らせられまして、洵(まこと)に御機嫌麗わしく、何んの御障(さわ)りもないことを承りまして、皆様と共に御同慶に堪えない次第であります。

 私は枢密顧問官であります御蔭(おかげ)を以ちまして、毎週一回は枢密院の会議に於いて龍顔(陛下のお顔)を拝することが出来るのであります。

 

 また会議のない場合に於きましては、拝謁を賜りますので、大抵一週に一回拝謁を賜わることになっております。

 

 何時(いつ)も乍(なが)ら洵に、天機麗しく、御心気御爽快に拝するのであります。

 

 此の非常時の場合に於きまして、陛下の御姿を拝しまして常に余裕綽々たる御様子であります。

 洵に心強く有難く感ずる次第であります。

 

 洵にその点に就きまして、日本国民は幸福であると云う感じを常に有難く拝する次第であります。

 

 御近状に就きましては、それだけのことを申上げまして、皆様もよく御承知のことでありますから、その他は省くことと致します。

 

 

 御 日 常

 


 それから次に、今上陛下の御日常に就きまして申し上げたいと思います。

 
 陛下には、毎朝御食事前に必ず御朝拝あらせられます。

 

 此の御朝拝は 伊勢神宮その他、祖宗神祗に御祈念あらせられるのでありまして、それから何時(いつ)も八時には侍従を宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)に御遣わしになりまして、毎朝御代拝を立てさせられるのであります。

 

 

 

 

(Google Earth)

 

 

 


 それから御食事後には、大抵新聞を御覧になります。

 

 此の新聞に就きまして、よく誤解をして居る者がありますから申し上げますが、切抜きを御差上げになるのかと云うことをよくお尋ねになることがあるのでありますが、今上陛下は決してそういうことはおありになりません。

 

 新聞は東京、大阪は勿論、地方の大きな新聞も御手許へ捧呈してありまして、それをよくご覧になるのであります。

 

 それで内外の大きな問題等にはお気付きになりまして、我々も御勤めを致しまてから時々、今日こういうことがあったかというお尋ねを被りまして、まだこちらは一向新聞まで気が付いておりませんので恐縮致すことがたびたびございます。

 なかなか御注意深く新聞に御眼を留められるのであります。


 
それから毎朝九時半頃に表御座所の方へ御出ましになりまして、そこで侍従長、侍従武官長それから皇后宮大夫、それからその日の当直の侍従、侍従武官、侍医、これだけの者は毎朝必ず拝謁を賜わるのであります。


 それでありますから、これらの方々はその時刻には必ず登庁していなければなりません

 

 

 

 


       
(以下 その二に続く)

 

 

 

 本日は東日本大震災一周年です。政府主催の追悼式が午後2時半から、東京都千代田区の国立劇場で挙行され、御療養中の今上陛下におかれましては皇后陛下と御二人で御参列あらせられ、御言葉を賜りました。

 

 私も、遠く福岡久留米より、改めて哀悼の意を表します。そして、復興の日の早からんことを心より御祈念申し上げます。

 

 

 

 

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日本国の肖像:その四十 紀元節奉祝 ある昭和の記憶 四

2012/02/11 05:00

 

 

 

 

紀元節 奉祝

 

 

 

 

迪宮裕仁親王殿下御肖像(先帝陛下)

 

 

 

 

 

 

母君香淳皇后(昭和天皇妃)に抱かれる継宮明仁親王殿下(今上陛下)

 

 

 第百二十四代、そして第百二十五代・・・我が日本国の皇統を継ぎ給うたお二人の、御幼少時 の尊い御姿である。

 

 (Wikipedia)

 

 

 

  天皇皇后両陛下のますますの御健勝を御祈念申し上げますとともに、併せまして平成二十四(2012)年二月十一日、皆様とともに紀元節の佳き日を寿(ことほ)ぎたいと存じます。

 

                                                    nobby

 

 

 

 

 帝都御巡幸

 

 

 昭和二十一(1946)年二月十九日と二十日の両日、全国御巡幸の第一歩を神奈川に捺された先帝昭和天皇は、 九日後の二月二十八日(木)と翌三月一日(金)御膝元である帝都東京の御巡幸のため再び皇居をお出ましになられた。

 

 

 東京は前年三月十日と五月二十五日の大空襲により、一面瓦礫の焼野原である。

 

 

 

 

 当時の東京

 

 

 (Wikipedia)

 

 

  三月十日の大空襲直後の東京

 

 (Wikipedia)

 

 

 

 

 この日、昭和二十一(1946)年二月二十八日(木)朝、皇居を出発された陛下の御車は、まず京橋に焼け残っていた第一相互館第一生命保険のかつての本社ビル。十階建てで、当時都下有数の高層ビルであった。現在この敷地には第一生命保険が新たな賃貸ビルを建設中で、完成予定は平成二十四年六月末。住所は中央区京橋三丁目一番、国立近代美術館フィルムセンターと、ビル二棟を挟んで右隣にある)にお立ち寄りになり、屋上から都内を展望された。

 

 

 

 

 次の三枚は、大正十二(1923)年九月一日に発生した関東大震災直後第一相互館屋上から撮影された写真である。

  二十三年後の和二十一(1946)年二月二十八日(木)朝、第一相互館屋上にお立ちになった先帝陛下の眼前に広がった光景は、これにも劣らぬ凄惨なものであったはずである。

 

 

 

(Wikipedia)

 

 

 

 

 皇祖皇宗が、大御宝(おおみたから:日本国民のこと) と手を携えて守り続けてこられた日ノ本は今、かつてない荒廃の極みにある。 

 

 自分にできることは、あまりにも多くの大切なものを失ってしまい、心折れ、傷つき、未曽有の苦難の淵に沈んだ全国の国民のもとを訪ね歩き、慰め、励ますことである・・・。

 

 それは皇祖神武天皇の御創業以来、史上かつてない規模で挙行する行幸、巡幸であり、いったいどれだけの時間がかかるのか、にわかには想像もつかぬ。

 

 しかし、皇祖神天照大御神をはじめ八百萬(やおよろず)の神々、祖父明治帝、父大正帝、そして歴代皇祖皇宗の御神霊が、力を合わせ復興に邁進する我が大御宝の畢生の力闘を嘉し給い、陰ながらお力添えを賜るやもしれぬ

 

 

 

 先帝陛下の大御心は、まさにここにあったのではないか

 

 

 畏れながら先帝陛下に、日本復興の道筋がすべて見えておいでであったとは思えない。

 

 しかし、打って一丸となったときの日本国民の強さ、頑張りを、誰よりも信じ、微塵も疑ってはおられなかったのが、まさしく先帝陛下であられた

 

 そして全国の国民の志も陛下の大御心に感応し、御巡幸一行の赴くところ津々浦々、打ち振られる日の丸とともに、歓呼と感涙を以て陛下をお迎えしたのである。 

 

 

 

 

 戦前、銀座三丁目のビル屋上(松屋?)から京橋方面を撮影した写真。画面右奥に見える一際高い建物が第一相互館である。

 

 

 

 

 

 (Google Earth)

 

 

 (Google Earth)

 

 

 

  第一相互館を後にされた陛下は、続いて日本橋浜町を経て小石川区春日町(現在の文京区春日一丁目及び二丁目)の焼け跡に建てられたバラックの簡易住宅に御成りになった。

 

 この住宅は一戸当たり面積わずか六坪(3.3㎡×6=19.8㎡)で、百戸ほどが肩を寄せ合うようにして並び、戦地で父や夫、息子を失った遺家族、あるいは空襲で家族をまた家屋敷や職場を失った人々が暮らしている。

 

 陛下は、住宅前の広場に集まった被災者たちに親しく話しかけられた。特に、家族を亡くした戦災者には懇ろなお慰めの御言葉を賜り、皆、感極まって泣いた

 

 

 陛下の御一行は、次に窪町小学校(文京区大塚三丁目にある区立小学校:当時は国民学校そして午前中最後の日程として鶴巻小学校(新宿区早稲田鶴巻町にある区立小学校:当時は国民学校)を相次いでご訪問になり、次代を担う子供たちの授業風景をご覧になったのである

 

 

 窪町小学校(旧校舎:同校HPより)

 

 

 

 

 鶴巻小学校(同校HPより)

 

 

 

 

 

 

 (Google Earth)

 

 

 

 

 陛下は新宿御苑で御昼食を摂られたあと、午後最初の日程として、新宿の伊勢丹百貨店(当時三階以上はGHQに接収されている)で開催中の「平和産業転換展」を御視察になった。

 

 

  

 新宿伊勢丹(2006年)

 

(Wikipedia)

 

 

 

 

 (Google Earth)

 

 

 

 

  このころになると、陛下の都下御巡幸を知った都民が誰言うこともなく自然に伊勢丹前に集まり、陛下のお出ましを今か今かとお待ち申し上げることとなった。

 

 陛下が御視察を終えられ玄関にその御姿が見えるや、その途端であった。

 

 誰かが音頭を取ったわけではない

 

 

 「天皇陛下、万歳!」  「天皇陛下、万歳!」  「天皇陛下、万歳!」

 

 

 の絶叫が巻き起こり、伊勢丹百貨店を震わせるほどに轟き渡った。

 

 

 一歩店外に歩み出られた陛下はハッとしてお立ち止まりになり、帽子を取ってにこやかに、万歳の声にお応えになられたのである。

 

 その場に立っていた老若男女、皆感激の涙に咽びながら、なお万歳を叫び続けた。

 

 陛下も、温容そのままに帽子を振り続けられ、やがて次の予定地に向かうため御車にお乗りになり出発されたのであるが、群衆はMPや警護の警察の制止も振り切って車道になだれ込み、万歳を叫び続けた。

 

 陛下も、車中からいつまでも帽子を振って、歓呼にお応えになられた。

 

 

 

  万歳の声に見送られた陛下は、次に世田谷区上馬にある野戦重砲第八連隊の兵舎跡に設けられた戦災者収容所に御成りになった。

 

 

 

 (Google Earth)

 

 

 

 

  陛下が一歩舎内に入られると、戦災孤児たちが、手作りの日の丸の小旗を振ってお迎えした。ここは、畳一枚に二人が生活する、狭くて粗末な施設である。

 

 陛下は、そんな宿舎ひとつひとつを訪ねられ、戦災者に御言葉をおかけになられた

 

 

 

 

  この日最後のお立ち寄り先は、都立第一中学校(現都立日比谷高等学校)である

 

 

 

 (Google Earth)

 

 

 都立日比谷高等学校正門

 

 (Wikipedia)

 

 

 予定では、三つの教室の授業風景をご視察になるはずであったが、陛下は教師や生徒の姿がある教室すべてをお廻りになり、親しくお声をおかけになられたのである

 

 

 この後陛下は皇居にお戻りになり、都内御巡幸の第一日目の日程は終了したのであった

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

  帝都御巡幸二日目の三月一日は、みぞれ混じりの冷たい雨が降り続く、寒い朝から始まった

 

 この日の訪問は、三多摩地方である(三多摩とは、東京都のうち、東京二十三区(旧東京市)と島嶼部(伊豆諸島、小笠原諸島)を除いた市町村部を指す。都下町村の市制移行を経て、現在「多摩」の地名は多摩市と奥多摩町、西多摩郡等に残っている)

 

 

 

  陛下の御一行は、まず府中(当時は北多摩郡府中町)市の戦災孤児収容所東光寮に到着された。

 

  両親を亡くし身寄りも無い、いまだ幼い子供たちが行儀良く並び、陛下をお待ちしている。

 

 陛下は傘を手に歩み寄られ、子供たち、ひとりひとり全員のいとけない顔を見つめながら、励ましの御言葉を賜った。

 

 大金侍従長ら、陛下の御側に供奉する者たちも、この子らに幸あれ、と願わずにはいられなかった

 

 

  

 

 

 

 

(Google Earth)

 

 

 

  次いで御一行は稲城(当時は南多摩郡稲城村)市の大丸稲城寮(外地からの引揚者が収容されている)を訪問され、陛下は、混乱の中でようやく帰国を果たした入所者たちにねぎらいの御言葉を賜った。

 

 続いて日野(当時は南多摩郡日野町日野町農業会では、地元の畑作状況について説明を受けられ、皆で力を合わせて食糧増産に頑張ってほしい、と一同を励まされたのである。

 

 

 続いて八王子市の織物工業統制会を訪問され、ここで御昼食を摂られた。

 

 

 

 

(Google Earth)

 

 

 

 

(Google Earth)

 

 

 

 御昼食後、陛下の御一行は市内の明神町にある富正(とみせい)織物合名会社を訪問された。ここでも生産状況の説明に耳を傾けられ、陛下はそのあと、工場で働く女工さん達を激励されたのである。

 

 

 

 次いで陛下の御車は、都立第四高等女学校現在女学校の跡地には都立南多摩高等学校と都立南多摩中等教育学校が併設されているが、2015年三月に高等学校は閉校が決定しているに到着した

 

 

 

 

 都立南多摩高等学校及び南多摩中等教育学校正門付近

  

(Wikipedia)

 

 

 

 

 

 この女学校の校舎は爆撃のために跡形もなく焼け落ちてしまったのであるが、終戦直後同校の先生と女生徒たちは、自分たちの手で校舎を再建しようと思い立ち、学校周辺を捜し歩いて材木を集め、学校まで運んできては女の細腕をもって、馴れない手つきで作業をしたのである。

 

 そして完成した校舎の噂は宮内省にも届き、やがて陛下の御耳にも達した。

 

 陛下が

 

 「そんな感心なことがあるのなら、ぜひ行ってみたい」

 

 と仰せられ、今回の御巡幸に際し、お立ち寄りが決まったのである。

 

 もとより、素人がにわか仕立てで建てた建物が、万全なもの、満足のいくものだとは、望むべくもない。

 

 しかし粗末ではあってもそこには、自らの学び舎を自らの手で再建することに奔走した女生徒とそれを助けた教師の、限りない向上心が投影されているのである

 

 

 御車を降りられた陛下は、そぼ降る冷たい雨のもと自ら傘をさされ、校庭の粗末なお立ち台の上にお昇りになった。

 

 そして新築成った校舎をじっと御覧になり、やがて校庭にかしこまる生徒や教師の方に向き直られた

 

 

 

  壇上の陛下

 

 

 

 

 

 岩崎校長が、教師と生徒が力を合わせて校舎を建てたことを奏上すると陛下は、

 

 「よく建てられました」、「よく建てられましたね」・・・・・、

 

 と何度も繰り返され、御褒めの御言葉をかけられたのであった。

 

 

  校長の奏上をお聞き届けになった陛下は、お立ち台を降りられ、突然、小屋のような職員室にお入りになられた。岩崎校長もあわてて陛下の後に続いた。

 

 その様子を見ていた職員も生徒も感激して、皆、泣いたのである。

 

 

 職員室では、陛下は、

 

 「職員生徒は食糧に困ってはいないか」

 

 とご質問があったという。

 

 

  再び外に出られた陛下は四年生の生徒の前に歩み寄られ、先頭に立つ生徒に、

 

 「家は焼かれたか」

 

 とお聞きになられた。

 

 「はい、焼かれました」と女生徒がお答えすると、陛下は

 

 「そう、でも早く校舎が建ってよかったね」

 

 と、慰められたのである。

 

 そして陛下は、整列している生徒らに次々とやさしい御言葉をなげかけられた。

 

 

 「お家はどこ。焼かれたの」

 

 「学校が焼けて大変だったね」

 

 「校舎がよく建てられたねえ」

 

 「しっかりね」・・・・・

 

 間近で陛下の御言葉を拝した生徒たちは、皆感涙にむせんで声も出なかったという。

 

 

  かくて陛下は、同校千三百人の職員、生徒らの感激の涙にぬれての御見送りのうちに御乗車になり、本校を後にされたのである

 

 

 

 


 

 

 

 

 第四高等女学校では、陛下行幸の直後、「行幸記念録」という文集をまとめた。以下は、その中の一編である。

 (原文は旧仮名遣い)

 

 

 

  天皇を拝す

 

 

 一年   遠山陽子

 

 

 (前略)陛下は御車からお降り立ちになり、御手に傘をお取りになって、私達の方へ玉歩を運ばせられました。私達は思わずじっと頭が下がりました。

 

  陛下は、お帽子をお取りになって、私達に御会釈を賜りました。

 

 ああ、何という光栄、今迄御写真でしか拝した事の無かった天皇陛下が今、お帽子をお取りになって私達女学生に御答礼あそばされたのであります。

 

 私は胸一ぱいの感激で、ただ何もかも忘れ、全身身をかたくして陛下を仰ぎました。

 

  だんだんと歩ませられる陛下には、茶色のソフト帽に、普通のオーバーを召させられ、普通のこうもり傘を御手づから持たせられ、その御手には、手袋さえもおはめ遊ばされず、普通の人と何等かわりない御質素な御身なりと、お親しみ深い御様子、私は有難さに胸がこみあげてきて泣きました。

 

  陛下が壇上にお立ち遊ばされて校長先生の申し上げる御説明に一々おうなづき遊ばされ、あちこち眺めさせられる御姿を、涙にかすんで拝しました。

 

  夏の暑い日、私達が汗を流して一生懸命働いた跡をお目にかけるのだと思えば、今更に勤労した喜びが、湧き上がってくるのでありました。

 

  陛下は、次に私達の手で造り上げた壕舎の中にお入り遊ばされました。私は陛下が、どんなお気持ちで、あの壕舎をご覧遊ばされるのかと思って、じっと入り口を見つめていました。

 

  やがて壕舎からお出まし遊ばされた、陛下のお顔は、お優しい御微笑を含ませられていらせられました。

 

  陛下は再び私達の方へお近づき遊ばされました。私達は、自然と頭が低く低く下がりました。

 

  その時

 

 「お家は焼けたの。」

 

 という玉音に、はっとして頭を上げると、「はい、焼けませんでした。」という中村さんの声が聞こえました。

 

  「ああそう。それは良かったね。お家はどこ。」

 

 という重ねての御下問。

 

  ああ、私は天皇陛下の玉音を拝聴することが出来たという感激とともに、この栄光に浴することが出来たといううれしさで、畏れ多いこととは思いながらも、おなかの底からこみあげるうれしさに、眼元に浮かぶ微笑をどうすることもできませんでした。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 この後陛下は八王子市役所を御訪問になり、市長から市の現況について説明を受けられ、さらに市役所前に集まった多数の市民による奉迎を受けられた。

 

 

 

 

 (Google Earth)

 

 

 

 帝都御巡幸二日目、最後の御訪問地は横山村(当時:現在は八王子市に編入)である。

 

 ここには、陛下の御父君大正天皇の墓所多摩陵が設けられている(後年、貞明皇后多摩東陵、昭和天皇武蔵野陵、香淳皇后武蔵野東陵も、多摩陵の至近の地に設けられることになる)

 

 村民の熱烈な奉迎を受けられた陛下は、横山村元幼年学校耕地にて、村長から当村の農業振興について説明を受けられた。

 

 

 

 これをもってすべての日程を終えられた陛下は、村民の万歳の声、打ち振られる日の丸に見送られ、多摩陵にほど近い東浅川仮停車場(現在駅は廃止され、東浅川駅跡として史跡になっている)に向かわれた。

 

 ここから御召し列車にお乗りになり、帰途に就かれるのである。

 

 二日間にわたった帝都御巡幸は、こうして無事終了することになった。

 

 

 次の御巡幸予定地は群馬県、三月二十五日(月)に始まる。

 

 

 

                           (終わり)

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

 

 鈴木正男著「昭和天皇の御巡幸」(展転社)

 

                        他

 

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日本人の肖像:軍人編その5 乃木希典Ⅴ 水師營の会見

2012/01/05 00:00

 

 

  明治三十九(1906)年日露戦役から凱旋後、故郷山口県長府に帰り、長府小学校の校庭に佇む乃木希典。

  福田和也著「乃木希典」(文藝春秋刊)のカバーに使用された写真である

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 唱歌 「水師營の会見」

 

作詞:佐佐木信綱  作曲:岡野貞一


 

 

一、
  旅順開城約成りて
  敵の将軍ステッセル
  乃木大将と会見の
  所はいづこ水師營

 

二、
  庭に一本棗(ひともとなつめ)の木
  弾丸(だんがん)あとも著(いちじる)
  くづれ残れる民屋(みんおく)
  今ぞ相見る二将軍

 

三、
  乃木大将は厳(おごそ)かに
  御(み)めぐみ深き大君(おおきみ)
  大みことのり伝うれば
  彼かしこみて謝しまつる

 

四、
  昨日の敵は今日の友
  語る言葉もうちとけて
  我はたたへつ彼(か)の防備
  彼はたたへつ我(わ)が武勇

 

五、
  かたち正して言い出でぬ
  「この方面の戦闘に
  二子を失い給いつる
  閣下の心如何(いか)にぞ」と

 

六、
  「二人のわが子それぞれに
  死所を得たるを喜べり
  これぞ武門の面目」と
  大将答え力あり

 

七、
  両将昼食(ひるげ)ともにして
  なおも尽きせぬ物語
  「我に愛する良馬あり
  今日の記念に献ずべし」

 

八、
  「厚意謝するに余りあり
  軍のおきてにしたがひて
  他日我が手に受領せば
  ながくいたはり養はん」

 

九、
  「さらば」と握手懇(ねんご)ろに
  別れて行くや右左
  砲音(つつおと)絶えし砲台に
  ひらめき立てり日の御旗

 

 

 

 You Tubeに、完全なもの不完全なもの様々なヴァージョンがアップされているので参考にされたし。

 

 

 

 

 佐佐木信綱(ささき・のぶつな) 

 

 明治五(1872)年六月三日誕生~昭和三十八(1963)年十二月二日歿

 

 

 

 三重県鈴鹿の生まれ。歌人、国文学者。国学者佐佐木弘綱の長男。

 高崎正風に和歌を学ぶ。明治二十一年(1888)東京帝国大学卒業後、短歌革新運動に参加。歌集『思草』(1903)、『新月』(1912)等がある。一方で、万葉集や歌学を研究、明治三十七(1904)年以降二十六年間にわたり母校東京帝大で教鞭を執る。『日本歌学史』(1910)、『和歌史の研究』(1915)、『校本万葉集』(1924~25)等の編著がある。昭和十二年(1937)第一回文化勲章受賞。文学博士。学士院・芸術院会員。

                  (国立国会図書館 近代日本人の肖像より)

 

 

 

 東京帝大で教鞭を執るかたわら気鋭の歌人としても知られていた佐佐木信綱のもとに、明治三十九(1906)年某日文部省より、唱歌数篇の作詞を委嘱したい、との依頼状が届いた。

 第二期国定唱歌教科書・尋常小学読本に教材として掲載したい、というのである。

 

  教職にある自分にとって、帝國臣民の子弟が学ぶ教材の作成に微力を尽くす機会が与えられることは大変名誉なことであり、辞退する理由はない。

 

 そう考えた佐佐木がさらに依頼状を読み進めてみると、その依頼のなかに、唱歌の題目として「水師營の会見」というものが掲げられていた

 

 

 「水師營の会見」といえば乃木将軍である。その事績は、いまや日本人なら誰でも知っていることではある。

 しかし、いやしくも日本国の将来を担う全国の子弟が読む教科書に教材として掲げるということであれば、正確の上にも正確を期すため、是非乃木将軍に直接お話を伺うことが必要であろう・・・。

 

 とはいえ乃木将軍とは一面識もない自分であるから、どなたかにご紹介をお願いするしかない。

 

 

 佐佐木が早速訪ねた相手は、大学の先輩であり、作家と軍人との二足の草鞋をはいて活躍していた当時陸軍軍医総監の森林太郎(鴎外)である。

 

 森は、ドイツに留学(明治十七~二十一年)していた若い頃から十三歳年上の乃木希典(明治二十年一月から一年半、ドイツに留学)に兄事し、乃木の息子たちが長じてからは、彼らが読むドイツ語の書物の良否などまで希典から相談を受ける間柄であった。

 

 

 森鴎外(本名:森林太郎)

 

 

 

 

 

 佐佐木の話を聞いた森林太郎は快諾し、乃木に取り次いでくれることになった

 

 

 

 後日、森鴎外のつてを得て赤坂の乃木邸を訪問した佐佐木信綱は、名刺を出し来意を告げると、早速応接間に通された。

 

 乃木家の当主たる彼の人は、かねてよりよく知られた温容を湛え、すぐに応接間に現れた。

 

 

 立ち上がった佐佐木信綱は深々と頭を下げ、森軍医総監にご紹介をいただきました佐佐木でございます、と名乗り、面談を許された礼を述べ時候の挨拶などのあと、実は本日お伺い致しましたのは・・・と本題に入った。

 

 文部省より、小学校児童向けの教科書に載せる唱歌を作詞するよう委嘱を受けていること、題目の中に「水師營の会見」があること、新聞等を通じ概略は知っているものの、将軍のご了承をいた上で、正確を期すため将軍に直接詳しいお話を伺い、是非将軍にもご納得をいただける作詞をしたいと考えていること等を述べたのである。

 

 乃木将軍は、しばらく黙って佐佐木の話を聞いていたが、やがて

 

 「それはご辞退いたしたい・・・、私自身のことを読本に載せるなど、恐縮でありますから、お断りいたしたいと存じます。」

 

 と言うのである。

 

 しばらく話を続けたものの、将軍はどうしても首を縦に振ろうとはしない。

 

 

 しかし佐佐木が、

 

 「このお話は文部省が既に決めたことでありますから(自分が今日は帰ったとしても)いずれまた誰かがお願いに参ることと存じますので、なにとぞお考え置きを願います」

 

 と述べると、将軍は下を向き、しばらくの間じっと何事か考えているようであった。

 

 やがて顔を上げた将軍は、

 

 「そう決まっているものならば、あなたにお頼みしましょう。しかし間違いがあるとよくない、当時私の側で参謀、副官を務めてくれた安原大尉がいま少佐になっているので、少佐にも来てもらって改めてお話をいたしましょう。日時と場所については、改めてお手紙でお知らせすることにいたします。」

 

 と言い、佐佐木に協力することを約束してくれたのである

 

 

 

 後日、将軍から手紙が届いた。

 

 「〇月☓日△時、偕行社でお会い致しましょう」とある。

 

 

 偕行社・・・陸軍将校の修養研鑽と団結を主な目的として、明治十(1877)年二月十五日に設立された集会所及びそれを起源とする団体。

   現在は「戦没者及び自衛隊殉職者等の慰霊顕彰、安全保障等に関する研究と提言、自衛隊に対する必要な協力、並びに定期刊行誌『偕行』等により防衛基盤の強化拡充に寄与し、もって我が国の平和と福祉に関する国政の健全な運営の確保に資することを目的とする」としている。(偕行社HP)

 

 

 

 

 

 (Google Earth)

 

 

 

 

 当日、佐佐木信綱が約束の時間に九段下の偕行社(現東京理科大学九段校舎)を訪れると、将軍と少佐は既に到着しており、にこやかに佐佐木を迎えてくれた

 恐縮した佐佐木は、何度も頭を下げた

 

 

 画面右が安原啓太郎大尉。中央は落合泰蔵軍医部長、左は吉田丈治経理部長。

 (於:旅順 米写真家バートン・ホームズ撮影)

 

 

 

(Google Earth)

 

 

  一室に入り、机を挟んで片方に佐佐木信綱、反対側に乃木大将と安原少佐が並んで座った

 

 乃木将軍は、あの日の会見、その前後の様子を、記憶を辿りながら詳しく話してくださった。

 

 将軍の横におられる安原啓太郎陸軍少佐も、将軍のお話を補足するように、折々に言葉を添えてくださったのである。

 

 とはいえ、私が書かねばならないのは小学生が習い、歌う唱歌である。

 

 長さ、文字、語彙などにも厳然と制限があるため、私が将軍や少佐が語ってくださったお話から得た事実、感銘をすべて歌にすることはできぬ、と思わざるをえなかった。

 

 どうやら約束の時間が来て、私たちは立ち上がることになったのであるが、最後にふと頭に思い浮かんだ質問をした。

 

 「その庭には、何か木がありませんでしたか?」

 

 将軍は、そういえば棗(なつめ)の木が一本あったのう、と云われる。

 

  少佐も、ありました、弾丸の跡がおびただしくついておりましたね、と云われた。

 

                   (参考:佐佐木信綱「明治大正昭和の人々」)

 

 

 

  以上の、偕行社におけるインタビュー取材をもとに、佐佐木信綱は精魂を込めて作詞に打ち込んだ。そして完成したのが上記「水師營の会見」なのである。

 

 お読みいただければ判るが、難しい漢字、語彙は一切使用されていない。

 

 会見の情景を、時の経過そのままに、小学生にも理解できる言葉を使って、短いが実に達意の文章で歌いやすくリズミカルに綴った、読めば読むほど滋味深い一編である。

 

 大東亜戦争敗戦前の我が国においては、大人も子供も、男も女も、誰知らぬ者のない歌、であったのだ

 

 難しい専門用語(らしきもの)や外来語を多用したこけおどしの文章は、例えば凡夫の見本である私や、不勉強な学生にもそれなりに書け、体裁を繕うこともできようが、本作のようにごく基本的な語彙だけで編まれ、虚飾を極限まで削り排除した精髄だけの文章は、日本語を知りつくし学問的素養と創作の鍛錬を十分積んだ者にしか書けないのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

  さて、明治三十八(1905)年一月五日午前十一時三十五分、半歳に及ぶ旅順攻囲戦を戦った日露の二将軍は、ここ水師營の民家の一室で、粗末な長方形の卓を隔てて対座していた。

 

 

  ステッセル

 

 

 

 

 

 水師營会見所

 この建物は、支那共産党政府が日本人観光客目当てに復原したもの。

ciaofushimiさん投稿映像

 

 

(Google Earth)

 

 

 

 両将は、互いに会見の機会を得て嬉しい、と述べあい、乃木大将は天皇陛下の御叡慮を伝え、ステッセル中将は謝辞を返し、また、第三軍がロシア関東軍とロシア皇帝との通信に便宜供与を惜しまないことに感謝した。

 

 続いて両将は、双方の随員の紹介を行い、その後はいわば雑談に入った。

 

 

 ステッセル中将は、日本軍砲兵による射撃の威力、工兵隊の果敢な行動を賞賛し、特に攻城砲兵を指揮した人物の手腕を称え、乃木大将が豊島陽藏少将の名を明かすと、副官に命じて豊島少将の名を筆記させた。

 

 対して乃木大将ロシア軍の防禦施設の堅牢さに、感嘆の意を表明したのである。

 

 それを受けステッセル中将は、防禦施設の構築にあたり中心的役割を果たしたのはコンドラチェンコ中将と某工兵大佐であるが、両人とも既に戦死していることを告げた

 

 続いて居住まいを正したステッセル中将は、乃木大将が愛育してきた二人の男子、勝典と保典をともに、ここ遼東半島の戦場で亡くしたことに哀悼の意を表明した。

 

 乃木大将がそれに対し、武門の家に生まれた二人が戦場に死所を得たことは、自分も当人たちも満足とするところです、と述べると、ステッセル中将は、「人生の最大幸福を犠牲にして嘆かないとは、閣下は天下の偉人であります、私などとても及ぶところではありません」、と嘆賞した。

 

 乃木大将がステッセル中将に「閣下には御子息はおられるのか」と尋ねると、中将は近衛歩兵中尉としてペテルブルグにいると答えた

 

 さらに続けて、「(日露戦争が始まり息子は極東勤務を希望したが、この戦役は私が望んだものではなかったので、皇帝陛下からの勅命がない限り、おまえは自ら求めてここに来るべきではない、と戒めた」と言ったのである。

 

 通訳する川上俊彦がこのくだりで眉をひそめ、日本側一同も首をかしげたという。

 

 自分が望んでいない戦いだから、本人の希望はどうあれ自分の息子は呼ばない、という発言は、日本側には理解しがたい言説であった。

 

 しかし中将は日本側の怪訝な顔にはかまわず、自分の乗馬であるアラビア種の駿馬を乃木大将に進呈したいと述べた。

 

 この申し出を受けた乃大将は、中将の御厚意まことにありがたい、軍の規則に従って手続きを行い、もし認められれば受領し、長く大切に養います、と返した。

 

 これに続き、乃木大将ロシア軍の戦死者の墓の保護について何かご要望等ありや、と中将に尋ねたという。

 

 中将は、実はひとつ要望があります、と述べた。

 

 「東鶏冠山北堡塁の西南方に小さな丘があります。名付けてロマン山と申します。コンドラチェンコ中将の名に因んだ名前です。この地に、コンドラチェンコと、彼とともに戦死した将校たちの墓があります。もしこの墓を保護していただけるならば、幸いです。」

 

 乃木大将はこれを聞き、「承知しました。御安心ください。」と述べた。

 

 

 大将が確約してくれたことに感動した中将は、

 

 (ス)「願わくば、この戦役をもって日露両国の紛争の終末として、将来は永く盟邦、良友として進退行動を共にしたい。」

 

 (乃)「予も両国の友好を望みます。貴国ロシア人は体躯長大にして防禦に長じており、我が日本人は矮小なれど攻撃の気性に富んでいます。両者が力を合わせれば、恐らく天下に敵する者はないでありましょう。」

 

 (ス)「その通り、まさにその通りです。この構想が、一日も早く実現することを願います。」

 

 (乃)「先決問題として、日露の国交が早く恢復して、再び閣下と一同に会することを望みます。」

 

 (ス)「予もまた、衷心よりこれを希望します。」

 

 

 

 午後零時十五分、会談は終了し、両将軍と随行者たちは昼食の席を囲んだ

 

 午後零時五十五分昼食は終了し、全員中庭に出た

 

 従軍記者たちの希望を容れ、ただ一枚の記念写真が撮影されたのはこのときである

 

 

 

 

 

 

 

 時の運により片方が勝ち、他方は敗れたとはいえ、勝者も敗者も、ともに国家に忠誠を尽くし全力で闘ったのである。

 勝者と同様敗者も、名誉と尊厳をもって遇されて当然である・・・。

 

 ステッセルとその従者にも帯剣を許し、武人の名誉を保たしめよ・・・明治大帝の思召しは、等しく乃木希典の信念でもあった。日本国民も、それを諒とし、称えた。

 

 

 日本武士道に並び立つ、あるいは匹敵する価値観が、例えばかつて列強と呼ばれたヨーロッパ諸国に、またアメリカ、ソ連、支那に、存在していたであろうか。

 日本武士道の光輝を感じ取ることのできる人々は、我が国以外にも確かにいた。しかし、日本武士道を体現できる民族は日本人のみであること、一目瞭然であろう。

 

 

  写真撮影の後、ステッセル中将は乃木大将に進呈する愛馬の運動能力を披露するため、皆の前で庭を乗り回したが、狭いため十分に運動ができず、しぶしぶ中止した。

 

 

 ステッセルの愛馬。乃木大将に贈られ、壽號(すごう:寿号)と名付けられた。

 

 

 

 

 

 午後一時二十分、両将軍は握手を交わし、訣別の時を迎えた。

 

 旅順市内の官邸に帰るステッセル中将一行には津野田大尉が随行することになった。

 水師營を発って松樹山麓の広い河原に来ると、中将は再び愛馬を駆って走らせ、調教が良好であることを津野田大尉に見せ、大将によろしく報告してくれるよう求めた

 

 

 

 午後三時三十分、旅順市内の官邸に帰着したステッセル中将一行は、中将のウェラ夫人に出迎えを受けた。

 

 入室した一行はウェラ夫人や津野田参謀を前に、乃木大将とは真に好箇の武人だ、白髪童顔で威厳と温容が兼備する良将軍だ、などと讃え、それを聴いていた夫人は「それほどに良き将軍ならば、私も一度拝顔したいと思います。是非食事にご招待したいので、大尉殿、よろしくお取り計らい願います。」などと真顔で話したので、大尉は、乃木将軍は大変お忙しい方でありますので、その儀はなかなかむつかしかろうと存じます、と逃げた

 

 津野田大尉はステッセルから、貴殿にはいろいろ御面倒をおかけしたからと、かつて北清事変のとき入手したというドイツ製騎兵銃を記念に手渡された。

 

 

 

 第三軍司令部に戻った津野田大尉は早速軍司令官室に直行し、ステッセル夫人から、軍司令官を食事にご招待したいとの申し出がありました、と報告した。

 

 乃木大将はそれを聞くや苦笑して、

 

 「そうかね、有難う」と答えたという

 

 

 

  明治三十七(1904)年五月三十一日、出征を控え広島にいた乃木将軍は、息子達が記念撮影した片山写真館で、息子達が写った写真のガラス原板を手に記念撮影をしている。

 よく知られているのはAであるが、B、いわば別テイク写真も存在する。

 

 A

 

 

 B

 

 

 

 

  ステッセルらが旅順を退去する日と定められたのは一月十一日である。

 

 一月十一日午前八時大連まで護衛の任を命じられている津野田大尉を伴い、馬車で官邸を出発したステッセル中将夫妻と一行は、長岺子駅に着くや見送りの伊地知参謀長らと握手し、再会を約して列車に乗り込み、大連に向けて出発した。

 

 午後、大連埠頭に列車は到着、列車を降りた中将らは港に停泊している貨客船鎌倉丸(長崎港行き)まで歩き、乗船した。

 大連に駐箚する遼東守備軍司令官の西寛二郎陸軍大将が見送りにやってきたが、会見に同席した津野田大尉によれば、ステッセルはこの時乃木大将との会見で見せた謙譲の風を表すことなく、敗軍の将とは思えない豪然たる態度であったという。

 

 津野田大尉はこの夜、大連港に停泊したままの鎌倉丸で一泊した。

 

 翌一月十二日朝、ステッセルらに別れを告げるため、船室を訪問した。

 

 ステッセルは改めて、乃木大将の厚意に対し深謝する旨述べ、謝辞を記入した名刺を大尉に預け、正式な御礼状は帰国後に認めるつもりだと語った。

 

 さらに、乃木大将に贈呈した馬をくれぐれも可愛がってやってほしい、と最後に付け加えた。

 また参謀長伊地知少将に対しても、くれぐれもよろしくお伝え願う、とのことであった。

 

 離別に当たって乾杯し、船室を出ようとしたとき、同輩のニェヴェルセコ、マルチェンコの両中尉は、一緒に長崎に行かないのか?などと言う。

 

 貴殿の仕事はもはや終了したのだから、(日本に帰っても問題はないのではないか、などと本気のように言うので、「日本人としては、そのようなわけにはいかん」と応え、船を降りた。

 

 鎌倉丸(奇縁であるが、終戦後乃木大将以下第三軍司令部一行が帰国に際し乗船したのもこの鎌倉丸である)はこの日長崎に向けて出港し、見送りを済ませた津野田大尉は旅順に引き返したのである。

 

 我が第三軍は明日一月十三日旅順入城、そして一月十四日招魂祭を挙行し、時を措かず北へ奔らねばならないのだ

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 日露戦争は、明治三十八(1905)年九月五日(日本時間)ポーツマス条約締結により終局している。

 

 しかし旅順攻囲戦終結直後、祖国に帰還していたステッセル中将は、旅順開城の当否をめぐって責任を追及され、軍法会議にかけられていた。

 その結果、明治四十一(1908)年二月に死刑判決を受けたのち、直ちにモスクワ市内セントポールの刑務所に収監されたのである。あとは、刑の執行を待つばかり、の筈であった。       

 

 そのことを聞き知った乃木大将は、当時フランスのパリに駐在していたかつての部下津野田少佐(奉天会戦後昇格)に書簡を送り、資料を準備するので、御苦労だがステッセルを弁護するため、欧州各国の有力紙に投書をするようにと指示したのである

 

 

 

 乃木大将からパリの津野田少佐に送られた手紙

 

 

 

 

 死刑判決を受けた後、その所感を津野田少佐に知らせたステッセルの手紙

 

 

 

 

 

 津野田少佐は、地元パリはもちろん、ロンドン、ベルリンヨーロッパ列強の首都の有力新聞に次々と投書し、ステッセル中将による開城の決断は已むを得ざるものであり、十分に戦い抜いた後の熟慮の結果であったこと、旅順要塞を陥落せしめた当事者、日本陸軍の乃木希典大将敵ながらステッセル中将の功績を高く評価していることを強調した。

 

 津野田少佐の張った論陣が、ロシアの軍法会議の審議にどれだけの影響を与え得たのかを数量化することはできない。

 しかし明治四十二(1909)年四月ロシア陸軍省は一転して特赦を発表し、死刑囚アナトリー・ミハイロビッチ・ステッセルを、改めて禁固十年に処する旨公表するに至ったのである

 

 海の英雄東郷平八郎と並び立つ、陸の英雄としてその名が世界に轟く乃木希典大将が、旅順要塞の総帥ステッセルの戦いを高く評価している・・・・・乃木大将の意を受け津野田少佐が条理を尽くして説いた弁護論は、本来動くはずのないものを動かした、と言えるのではないだろうか。

 

 

 やがて保釈の身となったステッセルは釈放されたが、しかしすべてを失い、生活に窮していた。

 

 遠い日本からかつての敵ステッセルの身を案じていた乃木大将は、そのことを知るや匿名で、少なくない金銭を送り続けたという。

 

 

 

  明治四十五(1912)年七月三十日、明治大帝が崩御され、即日元号は大正元年と改元された。

 

 大正元(1912)年九月十三日夜八時、大行天皇御大葬の葬列の出発を知らせる弔砲が帝都に轟くや、乃木希典・静子夫妻は、覚悟の殉死を遂げたのである。

  

 このころ島根県松江で軍務に精励していた津野田是重中佐(明治四十四年一月昇格)も将軍夫妻の突然の悲報に驚愕し、弔問のため上京、赤坂の乃木邸に駆けつけた一人であった。

 

 九月十八日、葬儀は滞りなく終了した

 

 後日、追善法要のため改めて上京した津野田中佐は、乃木大将の甥の玉木正之から、妙なことを尋ねられたのである

 

 「伯父(乃木希典)は旅順にいる時分、ロシア人の僧侶に何やら功徳を施した経緯でもあるのでしょうか・・・?」

 

 いきなりのようなことを聞かれ面食らった津野田中佐は、それは一体どういうことですか、と反問した。

 

 玉木はこれに答え、

 

 「実は伯父の死去に際し、皇室からの御下賜金に次ぐほどに巨額の見舞金が、ロシアから郵送されてきておりまして・・・。差出人の名はなく、ただモスクワの一僧侶としか書かれていないのです。常に伯父の側に居られた中佐殿ならお心当たりがあるやと思い、お尋ねした次第なのですが・・・。」

 

 心中閃くものがあった津野田中佐は、答えた。

 

 「それは、僧侶などではなく、恐らくステッセル将軍ではありますまいか。」

 

 もとより何ら物的証拠があるわけではない。しかし津野田中佐には、確信があった

 

 実はステッセルは軍法会議で死刑を求刑された後、次のような最後の弁論を行っていた

 

 「もし旅順開城の責任を血を以て償罪せよと言われるのならば、その血とはすなわち、私の血である。この上連累者を求め、無益な犠牲者を増やす必要はない」と叫び、責任を取るべき人間は自分しかいない、と、決然として認めたのである。

 

 

 ステッセル

 

 

Wikipedia

 

 

 乃木大将は水師營の会見の後、津野田大尉らに、ステッセルはいかにも男らしい軍人だと思う、と語っていたのだという。

 そう考えるからこそ、礼を尽くして遇し、ヨーロッパの世論を喚起してステッセルを支援しようとし、また匿名で金銭の援助を続けたとも言えよう。

 

 ステッセルも、かつての大敵、しかし戦役の後には、陰になり日向になり自分を助けてくれた乃木希典という異国の武人に対して、感謝と尊敬の心を抱いていたに違いない。

 

 

 軍法会議で死刑判決を受けたものの、特赦により減刑され釈放されたステッセルはモスクワ郊外の農村に移り住み、軍歴とは無縁の仕事に従事して、静かに暮らしていた

 

 あの乃木大将が、敬愛する日本国天皇の崩御を悼み妻とともに自決した、との報が彼の許に届いたとき、彼の脳裏に去来したものが何だったのかはわからない

 

 ステッセルが鬼籍に入ったのは、大正四(1915)年一月十八日である

 

 乃木大将の死に遅れること、二年と四か月。

 

 あの水師營の会見から、ちょうど十年が経った直後の死、であった。

 

 

 

 

 ロシア帝国とロマノフ王朝に、終末の時が近づきつつある

 

 二十世紀の世界を覆った大災厄、共産主義が牙を剥き始めていた

 

 

 

 

 

 

 

 

 (参考文献)

 

 津野田是重「斜陽と鐵血」(偕行社)

 大濱徹也「乃木希典」(講談社)

 児島襄「日露戦争 5」(文藝春秋)

  岡田幹彦「乃木希典 高貴なる明治」(展転社)

 

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日本国の肖像:その四十一 大本営写真班の見た旅順1904-1905〈四〉

2011/11/15 22:56

 

 日本国の肖像:その四十一 大本営写真班の見た旅順1904-1905

 

 今回はその〈四〉 最終回です。

 

 

 

 

  乃木第三軍が編制され旅順に出征した理由は、まずは後顧の憂いを断つためである

 

  明治三十七(1904)年二月八日日露開戦以来、続々と大軍を朝鮮・満洲に送り込み続けている陸軍は、時とともに太く長くなる一方の兵站線の基点を、より盤石なものにしておく必要あった

 

 兵站線の基点とは、遼東半島最大の港湾都市大連である

 

 

 

 (Google Earth)

 

 

 

 

 

  大連港の光景

 

 明治三十八(1905)二月某日撮影。

 

 

 

 大連の仮倉庫前に陸揚げされ、積み上げられた糧食。

 

 

 

 

 大連の第三軍兵站監部前の風景。

 

 

  

 通信局の二階から眺めた大連市街。

 

 

 

  大連兵站病院第一将校病室。

 

 

 

 

 大連兵站病院の隔離室。

 

 

 

 大連兵站病院に貨車で送られる傷病兵。

 

 

 

 大連兵站病院第二分院の遠景

 

 

 

  大連兵站病院第二分院第十四号室。

 

 

 

 

 

 

 しかし大連の西方には、帝政ロシアが誇る旅順の巨大要塞が数万の兵を擁して蟠踞し、同時にそこは、ロシア太平洋艦隊の母港でもある。

 

 当初参謀本部は、旅順など封鎖してさえいれば自然に立ち枯れる、と侮(あなど)っていたのであるが、開戦以来当地の現状が少しづつ明らかになり始めるにつれ、ここを潰しておかなければ兵站線の維持どころか、要塞兵ロシア満洲軍主力との間で挟み撃ちにされかねないという現実が判明した

 

 かくて、旅順要塞を攻略することを目的に、乃木希典陸軍中将(遼東半島に上陸した明治三十七年六月六日、陸軍大将に昇格)を軍司令官として第三軍が編制され、海を渡ったのである。

 

 

 

 第三軍が隷下の師団や独立旅団等の集結を待ちそのすべてを掌握した上で、まず旅順要塞の前線(周辺)陣地の攻略からその作戦を開始したのが六月二十六日

 しかし、前線陣地とはいえ頑強な抵抗は第三軍を悩ませ続け、攻囲の完成には一か月以上の日月を要したのである。

 

 

 七月十二日、この日東京で開かれた大本営会議で、海軍は陸軍に対し初めて、可及的速やかに旅順を攻略するよう要請をした。

 

 開戦以来四か月をかけながらことごとく失敗した海軍による旅順口封鎖作戦の、いわば尻拭いを第三軍に頼みたい、との申し入れであった。

 

 以後大本営からも海軍からも、満洲軍総司令部及び第三軍に対し、旅順の攻略はまだか、急げ!早くしてくれ~!と、矢の催促が続く。

 バルチック艦隊の東洋への派遣が現実化しつつある時期であり、大本営も海軍も、焦慮にかられたのである。バルチック艦隊が、現ラトビアのリバウ軍港を実際に出港したのは明治三十七年十月十五日

 

 

 

  リバウ軍港(現在はリエパーヤと呼ばれている)

 

 

(Google Earth)

 

 

 

 

  明治三十七(1904)年七月三十日、乃木第三軍は旅順の攻囲を完成し、この日以来旅順要塞は完全な陸の孤島となった。

 

 以後五か月間、砲撃や局地的な戦闘が断続的に続き、さらに数次に及ぶ総攻撃が加えられたが、要塞内部の状況は少なからぬ被害を受けていたにもかかわらず、ほとんど外部に漏れ伝わることはなかった

 

  ひるがえって我が第三軍の蒙った被害の甚大さは、新聞等を通じて民間にも逐一周知されていたため、国民の間に驚きと失望を呼び、乃木希典軍司令官以下第三軍幕僚に対する不信の念さえ惹起することになってしまったのである

 

 

 しかし第三軍も満洲軍総司令部も陸軍参謀本部も、聯合艦隊も海軍軍令部も大本営も、当時は誰も知るよしもなかったのであるが、実は旅順攻囲戦の進捗にともない、ロシア軍は故障した銃砲の修理・交換・補充がいちじるしく困難もしくは不可能となり、また要塞陸兵の戦死傷者の急増、新鮮な野菜等の不足から壊血病が蔓延し始めたことで健常かつ壮健な兵員の不足が深刻となり、やむなく軍艦搭載の艦砲の陸揚げや、太平洋艦隊所属の水兵の陸兵への転用などが頻繁に行われていた

 

 第三軍による、旅順要塞東北正面への執拗な打撃は第三軍自らに耐えがたいほどの損害をもたらしたが、ロシア軍に対しては、それに劣らぬ強烈なボディ・ブローとなって眼の眩むような消耗を強いていたのである

 

   

 海軍や、これに同調する長岡外史陸軍参謀次長の度重なる要請により実施された第三軍による二〇三高地攻略作戦(十一月二十七日~十二月六日)ではあったが、ロシア太平洋艦隊は海軍戦力としてはこの時、既に死に体でしかなく、もはや軍艦ではなく浮き船の集団に落魄していた。

 二〇三高地攻略作戦の成功は、艦隊撃滅というより、旅順要塞の総合戦力就中人的戦力に癒しがたい深手を負わせる結果となったことこそがその最大の功であった、と言えよう

 

   

 そして・・・・

 

 戦友が斃されても、その遺骸を踏み越えて堡塁に迫ってくる兵がいる。

 

 その兵が斃されてもまた、彼の遺骸を足場に鬼神の形相で突撃してくる兵がいる。その兵が死してもまた・・・。

 

 旅順要塞を守るロシア兵には、悪夢としか思えなかったであろう。

 

 その悪夢はやがて、口伝て、人伝てに、噂が噂を呼び、ロシア満洲軍のクロパトキン総司令官以下、ロシア軍将兵すべてに共有され、すべてを呪縛することなるのである

 

 

 

 

 

  そんな乃木第三軍と対峙した旅順要塞の総帥で関東軍司令官のステッセルは、積極的に打って出て日本軍を駆逐しようとした部下コンドラチェンコ陸正面防衛司令官(闘将として名高い)等の行動を抑えようとした人物であり、当時はもちろん現在でもその評判は必ずしも芳しいとは言えないのであるが、もし仮に、旅順要塞の総帥がステッセルではなくコンドラチェンコ(あるいは旅順要塞司令官スミルノフ中将)であったなら、むしろ消耗は加速し旅順要塞はもっと前に自壊したのではと思えてならない

 

 

 乃木第三軍が終始こだわり続けた旅順東北正面重視戦略は、国家国民から与えられた時間的・人的・物的条件(それは一面、制約でもある)のなかで、可能な限り、最大限の成果を挙げることに成功した、文字通り「肉を斬らせて骨を断つ」、王道を往く作戦だったのである

 

 乃木希典及び第三軍幕僚を、その著述の中で何度も愚劣、無能と口を極めて罵り、もはや自ら抗弁できない彼らの名誉を徹底的に貶めた産経新聞OBの某作家(故人)S氏は、今後その著述にある誤謬と恣意的解釈を厳正に再検討される必要があるのではないだろうか

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 次の写真は明治三十八(1905)年一月一日、第九師団第三十五聯隊及び第七連隊、第十一師団第四十三聯隊による、望台(別名一八五高地)への突撃の模様である。

 

 前日(明治三十七年十二月三十一日)までに、望台の周辺を取り囲み守っていた三大永久堡塁をはじめとするロシア軍の守備陣地はそのことごとくが陥落し、日本軍の掌中に収められていた

 

 望台は、東北正面において、標高が最も高い地点である。

 

 旅順要塞防衛の本丸であり、東北正面一帯を俯瞰できる最重要地点であり、ここを失うことは事実上旅順要塞防衛戦の「詰み」、つまり防衛側の「負け」を意味する 

 

 

 次の写真では、兵に抱えられ、急斜面を駆け登る我が日の丸いくつも見える。

 

 この写真撮影の五分後の午後三時三十分、ついに望台は陥落し、その頂上に日の丸が翻(ひるがえ)った

 

 

  明治三十八(1905)年一月一日午後三時二十五分撮影。

 

 

 

 

 一部拡大。

 

 上部に、名もなき兵士が掲げる小さな日の丸が見える。

 

 

 

 

 

 一部拡大。

 

 ここにも、日の丸をはためかせ望台山頂に猛然と殺到する、明治日本無名戦士たちの勇姿を見ることができる。

 

 

 

 

 

  望台山頂にある掩蓋。我が軍が頂上を占領する直前、この掩蓋に隠れていたロシア兵が、次々と手榴弾を投げて最後の抵抗を示した

 

 

 

 

  望台の頂上より、東鶏冠山北堡塁の背面を見る。

 

 

 

 

  望台の頂上より、二龍山堡塁の側面、H砲台及び盤龍山新砲台の背面を眺めた一枚。

 

 

 

 望台の頂上に残されていたロシア軍の重砲。向こう側の砲身が折れているのにお気付きだろうか

 

 

 

 

 

 

 

  望台が遂に日本軍に奪われたことを知ったステッセルは、もはやこれ以上の抵抗は、軍民問わず無駄に犠牲者を増やすのみであるとして、文書を作成し軍使を立てて、降伏を申し入れてきたのである

 

  水師營南方にある日本軍前哨点(第一師団管轄)にロシアの軍使が到着し、乃木軍司令官宛ての書面を提出したとの知らせは、午後四時三十分に軍司令部に届いていたのであるが、誰も降伏の申し入れとは思わず、書面の至急での取次は行われなかった。

 

  午後八時、正月の祝宴が開催されていた柳樹房の第三軍司令部に書面が届けられ、それを津野田参謀が読んで仰天し、あわてて軍司令官乃木大将、軍参謀長伊地知少将に報告した。

 

 ロシア軍の降伏を聞いた両将の驚きと喜びは、内容が全く予想外であったせいもあり、まこと、ひとかたならぬものがあったのだという

 

 鉄壁を誇った大要塞旅順はこの日、ついに乃木第三軍の前に、降を乞うたのである

 

 

 

 

 第三軍司令部は午後九時、大本営・満洲軍総司令官・聯合艦隊司令長官宛て、旅順開城を知らせる電報を発信した。

 この、乃木軍司令官による旅順開城第一報が明治天皇の御耳に達したのは、日付が変わった一月二日午前一時である。

 第三軍からの「旅順降伏」電文は一月一日午後九時に現地で発信され、午後十時十八分に東京の参謀本部 に到着したのであるが、すでに退庁していた長岡外史参謀次長が知らせを聞いて参謀本部に取って返し、電文を握りしめて皇居に参内し、明治天皇に奏上したのが一月二日午前一時、だったのである。

 

  明治天皇紀は、この時の陛下の御様子「宸色甚だ快然たり」と記録している

   

 

 

  ステッセルが送った降伏文書に基づき、降伏条件等を調整し開城規約にまとめるため、正月二日、水師營において両軍全権が話し合いを持つことになった。

 会場となったのは、庭に棗(なつめ)の木が植えられた、第三軍第一師団衛生隊が繃帯所(野戦病院に準じる施設)の手術室として使用している民家である。

 このため、現にここで治療を受けている兵は、引っ越し(転院?)を余儀なくされた。

 

 

 

  次の写真は一月二日、話し合いのため水師營の会場に入るロシア軍軍使の姿である

 

  ロシア側全権委員は関東軍参謀長レイス陸軍大佐。

 以下、「レトウィザン」艦長ステノウィッチ海軍大佐、第四師団参謀長代理ミトレフスキー陸軍中佐、第七師団参謀長代理ゴロワン陸軍中佐、ロシア赤十字社バラショフ代表の四人が委員である。

 随員として、ステッセル中将の副官マルチェンコ陸軍中尉が同行している。

 

 一方、日本側全権委員は第三軍参謀長伊地知幸介陸軍少将。

 以下、聯合艦隊第一艦隊参謀岩村団次郎海軍中佐、法律顧問有賀長雄法学博士、第三軍参謀山岡熊治陸軍少佐、第三軍参謀津野田是重陸軍大尉の四人が委員である。(ほかにロシア語通訳二人を同伴していた)

 

 

 日露双方による、国益と名誉をかけた議論の末にようやく規約の作成が終わり、両全権が署名したのが午後九時四十五分。

 その後、ロシア軍代表との会食を終えた伊地知少将一行が柳樹房の第三軍司令部に帰着したのは、既に日付も替わった一月三日午前二時十五分であった。

 

 

  明治三十八(1905)年一月二日午後一時三十分撮影。

 

 

  

 

 

  ロシア軍の軍使を護衛してきたコサック騎兵。

 

  明治三十八(1905)年一月二日午後二時二十五分撮影。

 

 

 

 

 

 

 

 

  二龍山堡塁背面の外壕の光景。

 

  明治三十八(1905)年一月三日撮影。

 

 

 

 

 

 

 

  投降したロシア軍捕虜の受降委員長は、第七師団長大迫尚敏(おおさこ・なおはる)中将である

 下の写真は、捕虜として身分保障を受けるため開城規約にのっとって投降し太陽溝付近の畑地に集合したロシア人捕虜の一群

 

  明治三十八(1905)年一月五日撮影。

 

 

 

 

 

 

 

 

 三日前、両軍全権が開城規約を議論し合った水師營の民家が、日露の軍司令官の会見場所に指定された。

 

 次の写真は一月五日朝、会見場に向かうロシア関東軍司令官アナトリー・ミハイロビッチ・ステッセル陸軍中将(先頭:白馬に跨っている)と、彼に従う幕僚の姿を捉えたものである。

  ステッセルに随行してきたのは、護衛兵の一団を除けば、レイス関東軍参謀長、副官マルチェンコ中尉、副官ニェヴェルセコ中尉の三人、そして乃木大将により案内役を指示された津野田大尉であった

 津野田大尉は、ステッセル一行の官邸からの出発に間に合わず、途中にトラブルもあり水師營の入り口付近でようやく追いついたと、自ら告白している

 

  明治三十八(1905)年一月五日午前十時四十分撮影。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ステッセルの一行と津野田大尉は、午前十時五十分渡邊管理部長らが待機する会見場に到着した。ステッセル中将始め一行は、茶菓の接待を受けつつ、乃木大将一行の来着を待った

 

  午前十一時三十分乃木希典第三軍司令官一行(随員は、第三軍参謀長伊地知幸介陸軍少将、第三軍参謀安原啓太郎陸軍大尉、第三軍司令官付副官松平英夫陸軍大尉、遼東軍司令部付事務官・ロシア語通訳川上俊彦の四名)は会見場に到着、五分後早速テーブルに着いた。

 

 会見が始まったのは、午前十一時三十五分である。

 

 

  この、水師營の会見とその後日談は、日本国民すべてが知り、後世に語り継ぐべき佳話である。

 

  この佳話は、別の機会に独立して採り上げるので、今回はこれまでにしておきたい

 

 

  会見終了後、乃木希典陸軍大将は従軍記者団の要望を容れ、会見の参加者全員で一枚だけ、庭で記念写真を撮ることを許した。

 

  乃木大将は明治天皇の思召しを拝し、敗将とその随行者にも帯剣を許し、武人の名誉を保たしめた上で撮影に臨んだのである。

 

  参加者全員を紹介しておく。

 

 (前列二名右より)

 第三軍参謀津野田是重陸軍大尉、ロシア関東軍司令官付副官N・ニェヴェルセコ陸軍中尉

 

 (中列四名右より)

 第三軍参謀長伊地知幸介陸軍少将、ロシア関東軍司令官A・ステッセル陸軍中将、第三軍司令官乃木希典陸軍大将ロシア関東軍参謀長V・レイス陸軍大佐

 

 (後列五名右より)

 第三軍管理部長渡邊満太郎陸軍砲兵少佐、第三軍司令官付副官松平英夫陸軍大尉、ロシア関東軍司令官付副官V・マルチェンコ陸軍中尉、第三軍参謀安原啓太郎陸軍大尉、遼東軍司令部付事務官・ロシア語通訳川上俊彦

 

 

   明治三十八(1905)年一月五日午後零時五十五分撮影。

 改めて申すまでもなく、日露戦争を記録した、今日まで伝わる無数の写真の中で、最も有名な一枚である。

 

 

 

 

 

  画面ではわかりにくいのであるが、第七師団によるロシア軍捕虜の授受が行われている背景では、今朝がたまロシア軍が使用していた兵営が爆破され、焼亡の運命をたどっている。

 

  明治三十八(1905)年一月五日午後二時五十分撮影。

 

 

 

 

 

  第三軍各部隊の、旅順入城。

 

 画面は、第一師団師団長松村務本(まつむら・かねもと)中将と幕僚、将兵の入城の光景である。松村中将は三週間後の二月四日、急病により収容された遼陽の軍病院にて不帰の客となる。

 

  明治三十八(1905)年一月十三日撮影。

 

 

 

 

  旅順新市街に入城した、鮫島重雄中将率いる第十一師団司令部による、分列式の光景。

 

  明治三十八(1905)年一月十三日撮影。

 

 

 

 

 

 第三軍司令官乃木希典陸軍大将の旅順入城。

 

  明治三十八(1905)年一月十三日午前十時二十分撮影。

 

  

  一部を拡大。

 

 乃木希典軍司令官と、彼に従う伊地知幸介参謀長以下幕僚たちの姿が捉えられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  一月十四日午前十時、前年六月の遼東半島上陸以来の戦死者・歿者を慰霊するために、水師營北方高地に設けられた招魂祭会場は、凍てついた風に粉雪が舞い、突き刺すような厳しい寒気に包まれていた。

 

  会場の中心に立てられた祭柱には、乃木軍司令官の筆で第三軍戰死病歿各位之霊と墨書され、祭柱の前の祭壇には、全戦歿者の名簿が供えられている。

 

 さらにその前には、カブ、大根、菓子、魚が盛られた供物台が並べられ、また炸薬を抜いた砲弾を花瓶に代えて供花が生けられ、英霊のに捧げられたのである。

 

 祭壇の横には、「満洲軍総司令官 侯爵 大山巌」から捧げられた、「供物料 金千圓」と書かれた木札も見ることができる。

 

 

  明治三十八(1905)年一月十四日午前十時撮影。

 

 

 

 

 

 

 

 

   招魂祭には、第三軍各部隊の代表者だけではなく、内外の従軍記者や外国からやってきた観戦武官等も参列している。

 

  午前十時、すべての参列者が見守るなか、乃木大将は自ら起草し清書した祭文を手に祭壇の前に進み、英霊の魂が拠る祭柱に正対し、祭文を朗読し始めたのである。

  

  列席した将兵は皆、亡き戦友たちの在りし日の勇姿に思いを馳せ、ともにこの日を迎えることがかなわなかった無念を想い、後から後から溢れる涙に、眼を赤く腫らした。

 

  外国人の観戦武官や従軍記者たちには、乃木大将の朗読する祭文を聴き取って理解できる者はいない。しかし、なぜか皆、もらい泣きしてしまうのであった。

 

  招魂祭終了後、通訳のもとに殺到した彼らは、訳文をくれ、と口々に希望したのだという。

 

 

 

 祭文を朗読する乃木希典

 

 

 

 

 

 祭文全文

 

 「維時(これとき)明治三十八年一月十四日、第三軍司令官乃木希典等(ら)謹みて清酌庶羞の奠(せいしゃくしょしゅうのてん:清酒とくさぐさのささげもの)をもって我が第三軍殉難将卒の霊を祭る。

 

 さきに我が軍の関東半島に上陸せし以来ここに二百十余日、その間諸子は善く勇往し、長く健闘し、あるいは鋒鏑(ほうてき:ほことやじり)砲火の下に命を致し、あるいは風餐雨虐(ふうさんうぎゃく:風雨にさらされて苦しめられること)の間に病歿せし者少なしとせず。

 

 しかもその功業遂に空しからず、ここに旅順港内敵艦隊は全滅に帰し、敵要塞の降伏を見るに至りしもの、誠に諸子の遺烈に因(よ)る。

 

 希典等(ら)諸子と生死をともにし、しかも生きて大元帥陛下より優渥(ゆうあく:手厚いこと)なる勅語を下賜せらるるに会い、顧みて諸子の遺烈を念(おも)えば、あに独りこの光栄を享(う)くるに忍びんや。

 

 嗚呼(ああ)諸子とこの光栄を頒(わか)たんとして幽明相隔つ、哀しいかな。

 

 すなわち我が軍の旅順口に入るや、諸子が忠血をもって染めたる山川と要塞とを下瞰(かかん:見下ろすこと)する処を相し(選び)まず地を清め壇を設けて諸子が英魂を招く。

 

 庶幾(こいねがわ)くは、魂たまや髣髴(ほうふつ)として来り饗(う)けよ(目の当たりにできるように現れ、もてなしをうけてください

  

       (岡田幹彦著「乃木希典 高貴なる明治」展転社刊 より)

 

 

 

 

 

 

 

  乃木大将による祭文朗読のあと、参列者は次々に拝礼し、亡き戦友を偲んだのである。

 

 

  招魂祭は、正午に終了した。

 

 

 

 

  続いて参列者は、招魂祭会場から東へ300mほどの場所にある、広場に設営された祝捷会場に処を移した。

 

  とはいえ戦場の事、会場は風除けに筵(むしろ)吊るし地面に粗末なテーブルを数百個並べただけである。

 

  各人に、ブリキ缶の折詰二個づつが配られた。

 メニューとしては、片方にはビフテキに似て非なる肉片、ビーフカツレツその他、戦場で望みうる限りの苦心の料理が詰められ、もう片方には赤飯が盛られている。

 燗をした清酒の徳利、甘党用の饅頭、カステラなどがテーブルに並べられたが、なぜか箸と酒盃が用意されていなかった。

 

 乃木大将の発声後、参加者は飯盒の蓋を酒盃代わりに酒を酌み交わし、鉛筆やナイフを箸の代わりにして折詰をつつき、久しぶりの御馳走に舌鼓を打ったのである。

 

 やがて酔いが進むと、余興が始まった。

 

 手踊りや泥鰌掬いでやんやの喝采を受ける兵、尺八を見事に吹奏して皆を唸らせる下士官がいる。

 

  落語、講談、謡曲など多彩な演芸・歌舞音曲が入れ替わり立ち代わり披露され、会場は日没まで、笑いや歓声が絶えなかったという。

 

 

 

 

 

 一月十一日乃木希典率いる第三軍司令部には、満洲軍総司令部より命令電報が届いていた

 

 

 「遅くても、二月中旬までには遼陽付近に全軍を集中せよ」

 

 

 

 

 

  旅順から遼陽までは、直線距離で約320km。皇居から滋賀県彦根市までの直線距離とほぼ等しい。しかし当時の満洲は、道路等社会資本の整備はほとんどなされておらず、雨が降れば全域が泥濘と化す狭い悪路ばかりであり、鉄道にも需要すべてに応える能力はない。膨大な資材を抱えた数万人の大軍団が隠密裏に、しかも素早く移動するのは難事中の難事、であった。

 

 

(Google Earth)

 

 

 

 既に大山巌(このころ満洲軍総司令部は、遼陽の北方20km付近にある東烟台に占位)率いる満洲軍主力は、北の沙河付近に滞陣し、クロパトキン率いるロシア満洲軍と睨み合いを続けている。

 

 すべての日程を終えた乃木希典第三軍司令官は、翌一月十五日、第三軍全軍を、北方の新たな戦場に向けて出発させたのである。

 

 

 

 

                               (終わり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「日露戰役寫眞帖」大本營寫眞班撮影 陸地測量部藏 小川一眞出版部刊より

 

 

 

  

 (参考文献) 

 

 「日露戦争 1~8」児島襄著 文藝春秋

 

 

  

 

 

                       他

 

 

 

 

 

                                          

 

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日本国の肖像:その四十一 大本営写真班の見た旅順1904-1905〈参〉

2011/11/01 07:00

 

 日本国の肖像:その四十一 大本営写真班の見た旅順1904-1905

 

 今回はその〈参〉

 

 

 

 

 

 

  今回最初の写真は、大連に上陸した旭川第七師団所属の騎兵第七聯隊の一部を撮影したものである彼らが待っているのは、積荷降ろしがまだ終了しないためであろうか

 

  明治三十七(1904)年十二月二日撮影。

 

 

 

 

 

 

 

 

  次の一枚は、第二回総攻撃で攻略した龍眼北方堡塁(写真のキャプションにはクロパトキン堡塁と書かれている)の外壕から、水師營方面を眺めたものである

 

 この日明治三十七(1904)年十二月六日、ここ龍眼北方堡塁から南西に約6km離れた二〇三高地をめぐる攻防戦は我が第三軍の勝利のうちに終局を告げることになったのであるが旅順東北正面を含む第三回総攻撃そのものは未だ決定的勝利を得ることができぬまま、時を同じくして中止された

 

 

 しかし二〇三高地を占領したとはいえ・・・・・

 

 その攻撃の主担任たる新鋭、第七師団(旭川)の闘いは凄愴を極め、師団の半数を越える七千名の死傷者を出すことになったのである

 乃木希典第三軍司令官の二男乃木保典少尉(十一月三十日戦死)が所属し、やはり二〇三高地攻略を担った後備第一旅団(第七師団大迫尚敏中将の指揮下に入っている)旅団長友安治延少将は戦いの最中の十二月一日、もはや限界だと主張し、大迫中将に指揮権を返上し、後方に配置転換された

 

 押しては押し返され、奪(と)っては奪り返され、まさに二転三転、血で血を洗うが如き難戦の末、ようやく二〇三高地を陥とすことができたものの、旅順要塞の本丸である東北正面に対する攻撃がまたしても跳ね返されてしまった以上、第三回総攻撃が成功したと認定されることはなかったのである

 

  明治三十七(1904)年十二月六日撮影。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  海軍軍令部編『明治三十七八年海戦史』にみる、雪をかぶった二〇三高地。

 

 攻め落とそうと攻撃してくる者に対しては、目前の二〇三高地守備隊からだけではなく、周辺に健在のあまたの堡塁・砲台から激烈な十字砲火が浴びせられる

 高く長大な鉄条網、幾筋も掘られた塹壕が第三軍の行く手を阻む。

 

 それは、眼が眩むほどの鐵と血を注ぎ込むことによってのみ、開くことができたのだ

 

 

 Wikipedia

 

 

 

  碾盤溝南西約600m付近に設置された二十八珊榴弾砲が、二〇三高地攻略後山頂に設置された観測所の指示に基づき、旅順港内のロシア太平洋艦隊に向け火を噴いている光景

 

  明治三十七(1904)年十二月九日午後一時十分撮影。

 

 

 一部拡大。

 

 

 

 

 

 

 

 旧市街の港を東港、新市街の港を西港と呼んでいる。

 

 

 

 

 

  二〇三高地山頂の観測所から眺めた旅順港東港と西港黄金山(画面中央やや右、湾越しに見える山塊)老虎尾半島の先端部に挟まれ、外洋につながる旅順口が見える画面右端。聯合艦隊が実施した旅順口閉塞作戦の主戦場)

 

 

 

 

 

 上の写真の一部を拡大したもの。砲撃を浴びて浸水着底したロシア海軍艦艇の一部が確認できる

 

 a・・・巡洋艦「バヤーン」   b・・・水雷母艦「アムール」

 

  c・・・戦闘艦「ポペーダ」       d・・・戦闘艦「レトウィザン」

 

  e・・・戦闘艦「ポルターワ」    f・・・戦闘艦「ペレスウェート

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  二〇三高地の西北方高地の中腹から、占領後の二〇三高地の頂上を眺めた一枚。二〇三高地は、峰が東北側に一つ、西南側に一つ、ラクダのこぶのように二つあるため二子山とも呼ばれていた

 

  明治三十七(1904)年十二月十一日撮影。

 

 

 

 

  画面左下に見える一本の墓標を拡大したもの。付近に比較するものがないため、大きさが不明である。撮影の日と同じ日付が建立日として墨書されているのが読み取れる。

 

 

 

 

 

  画面右(西南側)峰付近を拡大。人影と、浮かぶ観測気球のようなものが見える。活動している着弾点観測要員であろうと思われる

 

 

 

 

  画面左(東北側)の峰付近を拡大。さらに多くの人影らしきものが見える。

 

 

 

 

   現在の二〇三高地の頂上付近衛星写真。無数の砲弾の炸裂が山容を変えた当時と違い緑が繁茂し、公園が作られ観光スポットになっている

 

 

 (Google Earth)

 

 

 Daizo Esaki氏によるGoogle Earthへの投稿写真。上の衛星写真でもはっきり見える。

 

 

 

 二〇三高地攻略後、乃木希典が詠んだ絶唱。

 

 

 爾霊山嶮豈難攀    爾霊山の嶮 豈(あ)(よ)じ難(がたからんや


 男子功名期克艱    男子功名
 克艱(こくかん)を期す


 鐵血覆山山形改    鐵血 山を覆(おお)いて 山形改まる


 萬人斉仰爾霊山    万人 斉(ひと)しく
仰ぐ 爾霊山

 

 

 

 

  陥落直後、雪の二〇三高地より撮影された旅順口。海軍軍令部編『明治三十七八年海戦史』より。

 

 

 Wikipedia

 

 

 

 平成十八(2006年に、二〇三高地より撮影された旅順口

 

 

 Wikipedia

 

 

 

 

  潘家屯に設置された第七師団司令部。

 

 前月、新戦力として旅順に派遣されてきて以来、高崎山に第一師団とともに司令部を置いていたが、第三回総攻撃終了後潘家屯に移動した。

 

  明治三十七(1904)年十二月十一日撮影。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  次の写真は、姜家屯における二十八珊榴弾砲発射の光景である

 

 この写真が撮影される二日前の十二月十五日ロシア軍の陸正面防衛司令官で、積極果敢な猛将として著名なロマン・イシドロビッチ・コンドラチェンコ中将は、午後七時半ごろ東鶏冠山北堡塁を訪れた。

 前線で勇敢に闘う兵たちに、勲章を授与するためであったという。

 

 堡塁の周辺では、日本軍が放つ二十八珊榴弾の、まるで列車の轟音を思わせる飛走音と、大地を揺るがす着弾音が時折、闇を切り裂いて響き渡っている

 

 コンドラチェンコ中将は、日本軍の砲撃にも耐えられる(と思われた)コンクリート造りの部屋で、歴戦の兵たちの敢闘を称え、彼らの胸に「聖ゲオルギー勲章」を付けて祝辞を述べ、さらに食事の席を囲み歓談したのであった

 

 

 午後九時すぎ、受勲者たちとの会食を終えた中将が席を立とうとした刹那、再び二十八珊榴弾が飛来する鋭い音が頭上に轟いた

 

 次の瞬間、地表とコンクリート屋根を貫いた砲弾は隣室に着弾し、炸裂したのである。

 

 食卓を囲んでいた十四名のうち、七が戦死した。

 

  破片を後頭部に受けたコンドラチェンコ中将もそのひとりで、鮮血と脳漿をふりまいて即死していたという。

 

 享年四十七歳。

 

 

  なお、資料によってはコンドラチェンコの命日を十二月十二日、あるいは十三日としているものもある、ソ連国防省軍事史研究所教授でソ連(当時)陸軍中佐のイワン・イワノビッチ・ロストーノフ著「ソ連から見た日露戦争」(大江志乃夫監修・及川朝雄訳:原書房刊 原書は1977年初版)では十二月十五日となっているのでそれに従う。

 コンドラチェンコがこの日、東鶏冠山北堡塁を訪れた経緯も若干違うのであるが、ここでは立ち入らないことにする。

 

 

 コンドラチェンコの葬儀は、の写真が撮影された十二月十七日、しめやかに挙行されたと伝えられる

 

 

  明治三十七(1904)年十二月十七日午後三時三十五分撮影。

 

 

 

 

  対壕第三歩兵陣地銃眼より眺めた東鶏冠山北堡塁

 

 

 

 

 

  東鶏冠山北堡塁に向けて延びる対壕の、第四歩兵陣地の状況

 

 

 

 

 

   

  次の写真は、東鶏冠山北堡塁の大爆発を姜家屯西北高地より見した一枚

 

 第三軍の基本方針は、堡塁の地下の奥深くまで掘進した坑道に大量の爆薬を仕掛けロシア軍が陣地防衛のために構築した人工物を軒並み吹き飛ばして我が軍歩兵の突撃路を開削しようとするものである。

 

 第十一師団は石川潔太工兵大佐の指揮のもと、東鶏冠山北堡塁の地下に坑道を掘って薬室となる八つの地下空間を作り、そこに総計2,250kgの爆薬(750kgがダイナマイト、1,500kgが綿火薬)を仕掛けた。

 

 爆破予定時刻は十八日午後二時であったが、ロシア兵が投擲した手榴弾により発火用電線が一本切断されたため修復に手間取り、約十分の遅延が発生した

 

 明治三十七(1904)年十二月十八日午後二時十分撮影。

  

 

 

 

 

 

  東鶏冠山北堡塁正面の地下大爆発は、予想をはるかに上回る大量の土砂を噴き上げた。

 

 このため待機していた突撃隊は、これから突進せねばならない前面の通路を降り積もった土砂で塞がれてしまい、まずは土砂の排除に大わらわとならざるを得なかったのである

 

 十分後の午後二時二十分、青木助次郎歩兵大佐率いる歩兵第二十二聯隊、第四十四聯隊による東鶏冠山北堡塁への突撃が開始されたが、爆破を予期していたロシア軍もすばやく兵を配置し直して激しく抵抗しはじめ、やがて戦線は一進一退膠着してしまった

 

 東鶏冠山北堡塁担任の第十一師団(善通寺)は、土屋光春師団長が十一月末に体調を崩し、代わって十二月一日より鮫島重雄中将が師団長に就任している。

 

 戦線の膠着を感じ取った師団長鮫島中将は一旦突撃を中止させたが、戦況の推移を見て夜襲を決断、夜の帳が降りるや後備歩兵第三十八聯隊の第二大隊を数派の突撃隊に分けて送り込んだのである

 

 激闘数刻、我が突撃隊の猛攻を受け兵力が限界まで枯渇したロシア軍守備隊は、もはや後方からの援兵の増派も見込めない苦境におちいり、午後十一時頃、ついに退却を始めた

 

 さらに午後十一時四十分、我が突撃隊の先兵が東鶏冠山北堡塁内にロシア兵の姿が見えないことを確認するに至った

 

 

 この日十二月十八日、帝政ロシアが世界に誇った旅順要塞三大永久堡塁の一角、我が日本軍将兵の厖大な血を吸い、肉を食らい続けた最凶の要塞東鶏冠山北堡塁は、遂に崩壊に追い込まれたのである

 

  明治三十七(1904)年十二月十八日午後二時二十分撮影。

 

 

 

 

 

 

 

  陥落直後の東鶏冠山北堡塁。

 

 画面右に、我が軍を苦しめ続けたロシア軍の野砲二門が置き去りにされている。

 

 

 

 

  これも、陥落直後の東鶏冠山北堡塁の光景。目に見えるあらゆるものが、そのもともとの形を成していない。

 

 

 

 

  

  

 

 


 

 

 

 

 

 

  明治三十七(1904)年十二月六日に二〇三高地が陥落して、旅順口の港をまるまる見渡せる二〇三高地(爾霊山)の頂上に攻城砲兵及び海軍陸戦重砲隊の観測所が設けられたことにより日本軍砲兵に死角はなくなり、湾内に浮かんでいたロシア太平洋艦隊は、ことごとく沈められた。

 

 聯合艦隊は、開戦以来苦しめられてきたロシア太平洋艦隊の脅威からようやく解放され、また新たな闘いに備えて艦船の徹底的な整備を行い、将兵は傷を癒し、休養をとり、さらに訓練を積むことができるようになったのである

 

 出征以来初めての、内地への帰還を控えた聯合艦隊司令長官東郷平八郎海軍大将は、腹心の聯合艦隊参謀、秋山真之海軍中佐飯田久恒海軍少佐の二名を連れて、十二月二十日、第三軍司令部本営を訪ねた。

 

 恐るべき犠牲を払いながらも、なお苦闘を続ける乃木第三軍を労(ねぎら)い、二〇三高地攻略の礼を述べるためであった。

 

 

 

 下に掲げたのは両将の会見後、一同が並んで撮影した記念写真である。全員を紹介しておこう。

 

 (前列八人右から)

岩村参謀、榊原工兵部長、落合軍医部長、乃木大将東郷大将、伊地知参謀長、吉田経理部長、大庭参謀副長 

  ※岩村団次郎海軍中佐、聯合艦隊第一艦隊参謀。第三軍司令部に連絡将校として長期出張中。

 

 

 (中列九人右から)

兼松副官、伊集院参謀、山岡参謀、秋山参謀飯田参謀、黒井海軍陸戦重砲司令、白井参謀、齋藤参謀、奈良攻城砲兵司令官副官

 

 

 (後列七人右から)

安原参謀、福島副官、松平副官、河西参謀、吉岡高級副官、津野田参謀、渡邊管理部長

 

 ※病気加療のため帰国が決まった磯村参謀の後任として、河西惟一副官(陸軍大尉)が兵站担当参謀に横滑りすることになったため、その後任として十二月十四日、松平英夫陸軍大尉が第三軍司令部に赴任してきた

 松平副官は旧会津藩主松平容保(まつだいら・かたもり)の五男。後年、中佐の時陸軍を退役し、貴族院議員に就任した。後、長州の山田伯爵家(山田顕義が始祖)の養子となる。

 

 

  明治三十七(1904)年十二月二十日撮影。

 

 

 

 

 一部を拡大。

 

 東郷平八郎乃木希典たまたま両雄の間に写っているのは秋山真之

 

 

 

 

 

  秋山真之の述懐

 

  『私はこれまで種々の事に出合ってきたが、まだこの時のように思い出深い場面は見たことはなかったね。

 

 東郷、乃木大将が真心こめて握手せられたその刹那の光景というものは到底忘れることの出来ない印象を私に与え、追憶するたびに何とはなしに涙ぐましくなって来るのだよ。

 

 考えるとそのはずさね。

 

 半歳にわたって大敵と戦い、寒暑と戦い、風雪と戦い、東郷大将とすれば十余艘の艦艇を失ったのと数多(あまた)の部下が忠烈の死を遂げたことを偲(しの)ぶあまりか、髭が白さを増したし、さらに乃木大将としては一段切なかったろう。

 

 二愛子の死をも微笑をもって聴き、それをせめてもの面目とせねばならぬとは、人生こんな悲惨なことがまたとあろうか。

 それさえあるに、毎日毎日百千の勇士が忠義に斃れる報告に接するとは、よく気が狂わなかったと思うほどだよ。

 

 こうして悪戦、苦闘を続けた両将軍が今や辛うじて目的を達しようとし、ここに握手の機会を得たのだもの、両者の眼に涙が光ったのも無理ではあるまい。

 

 そのあまりに痛烈な光景に打たれて、我々幕僚は一人として頭をもたげていたものはなかったよ。』

 

              (岡田幹彦著「乃木希典 高貴なる明治」展転社刊 より)

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

  東鶏冠山北堡塁正面外岸穹窖の入口より左方室内を見る。

 

  ここに隠れたロシア兵が、前線を突破して堡塁内に攻め込んできた日本兵に向け、機関銃を乱射していたのだろうか。攻め入った日本兵は誰も帰って来ない、悪魔の咢(あぎと)の一角であった

 

 

  明治三十七(1904)年十二月二十四日撮影。

 

 

 

 

  次の写真二枚は、外岸穹窖の入口付近。

 

 

 

 

 

 

 

  東鶏冠山北堡塁からロシア兵すべてを追い落とした後、逆に背面ロシア軍側)に対する防備を固めなければならない。この写真は堡塁の外壕をロシア軍側に対し固める工事の状況を捉えたものである。

 

 明治三十七(1904)年十二月二十四日撮影。

 

 

 

 

 

 

 

 

  東鶏冠山北堡塁が陥落したころ、第九師団(金沢)による対二龍山堡塁地下坑道掘削作戦は、ようやく目標を達成しようとしていた。

 

 第三軍司令部と第九師団司令部との協議の結果、第九師団第十八旅団に所属する第三十六、十九両聯隊に対し、十二月二十八日に地下坑道爆破の実施直後、それぞれの主力をもって突撃することが下令されたのである

 

  十二月二十八日、旅順は快晴の朝を迎えた。

 

 この日乃木希典軍司令官は鳳凰山南東に聳える二一八高地に登り、二龍山堡塁爆破と二龍山堡塁への突撃の推移を見守ることになる。

 

 仕掛けられた爆薬は、東鶏冠山北堡塁のそれをはるかに上回る、2,700kgに及んだ。

 

 下の写真は八里庄付近から二龍山堡塁正面地下の大爆発を撮影したもの。

 

 ロシア側は特に将兵に対し退避行動を指示していなかったので、二龍山堡塁の胸墻で守備していたロシア兵約150名が生き埋めになったという。

 

 爆発直後、我が第九師団第十八旅団第三十六、十九両聯隊が突撃を開始したが、ロシア側も近くの砲台から二龍山に向け激しく銃砲撃を集中してきたため、爆破孔にまでたどりつくのがやっとでそれ以上進めなくなり、攻勢は停滞し、日が暮れるまで一進一退が続いた。

 

 しかし、日本軍の波状攻撃の前に一人、また一人、兵員が減っていく堡塁指揮官ブルガコフ大尉はゴルバトフスキー地区司令官に援兵を要請したが、午後九時、もはや一人の援軍も望めない状態に陥ったのである。

 

 かくてロシア軍二龍山堡塁守備隊は、軍事施設を破壊し、陣地に火を放って撤退した。

 

 残敵掃討を終えた第三十六、十九両聯隊が二龍山堡塁占領を確認したのは、日付が変わった十二月二十九日午前三時であったと記録されている

 

 鉄壁を誇った旅順三大永久堡塁のうち、これで二つが乃木第三軍の掌中に落ちた。

 

 

 明治三十七(1904)年十二月二十八日午前十一時一分撮影。

 

 

  

 

 

 

 

  二龍山堡塁において稼働していた発電機。

 

 

 

 

 二龍山堡塁背面に掘られた暗路。兵士はここを通って堡塁と外部とを行き来していた。

 

 

 

 

 

 

 

  十二月三十日、第一師団(東京)による松樹山堡塁攻略作戦の準備が整い、松村師団長は第二旅団長中村正雄少将に対し、明朝午前十時の松樹山堡塁地下坑道爆破を期して、突撃を開始するよう下令したのである。

 

 突撃を担任するのは第二聯隊であった。

 

 

  龍眼北方堡塁東方より松樹山堡塁正面地下の大爆発を望む

 

  明治三十七(1904)年十二月三十一日午前十時撮影。

 

 

 

 

 

 

 

 

  松樹山堡塁に先立つ東鶏冠山北堡塁二龍山堡塁の爆破作戦においては、爆発の被害が味方にも及んだことから、松樹山堡塁爆破においてはより精密な計算が行われた。

 

 その結果、爆発で鉄条網、塹壕、積み上げられた土嚢、胸墻などが見事に吹き飛び、敵の守兵二百八人の過半数が生き埋めになったにもかかわらず、我が軍の被害は皆無であったという。

 

 先日奪取した二龍山堡塁上から、我が軍の機関銃四丁が援護射撃を加え始めている。

 

 そして特に選抜された三十七人の突撃隊が、あたりを覆う濛々たる爆煙の中、堡塁に突入していった。

 

 突撃隊は爆破孔直前まで進んだが、松樹山周辺に健在の敵堡塁から激しい銃砲撃を浴び、一時立ち往生することになる。

 

 しかし十時十五分頃、敵の砲弾集積所を我が軍の砲弾が直撃したことから大規模な誘爆が発生し、ロシア軍守備隊は大混乱に陥った。

 

 兵員多数が倒壊した建物の下敷きになり、動ける兵には退却する者が続出してしまったのである

 

 

 

 誘爆に伴う爆煙

 

 

 

 

 

 

 

 午前十一時五十分、突撃隊に続いて松樹山堡塁内に進出した第二聯隊主力は、白旗を掲げて降伏するロシア兵を発見し、また壊した建物の下から敵兵百人以上を救出したのであった。

 

 

 

 

 三大永久堡塁最後の砦松樹山堡塁は、あろうことか実質三十分で陥落してしまったのである

 

 

 

 

 下は、地下に掘られた松樹山堡塁内の暗路の入り口の写真。誘爆の衝撃で暗路内の一部が崩落し、中にいたロシア兵は退路を失い、降伏した

 

 

 

 

 松樹山堡塁内の弾薬庫の入り口。無数の砲撃を受け、崩れかけているように見える。

 

 

 

 

 

  旅順の三大永久堡塁は、この日十二月三十一日をもって、そのすべてが我が軍の占領するところとなった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「日露戰役寫眞帖」大本營寫眞班撮影 陸地測量部藏 小川一眞出版部刊より

 

 

 

 (参考文献)

 

 「日露戦争 1~8」児島襄著 文藝春秋

                                          

 

                                                                         

 

 

 

 

 

 

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日本国の肖像:その四十一 大本営写真班の見た旅順1904-1905〈弐〉

2011/10/16 18:55

 

 

 

日本国の肖像:その四十一 大本営写真班の見た旅順1904-1905

 

今回はその〈弐〉です。

 

 

 

 

 

 明治三十七(1904)年八月二十二日、ロシア軍が立て籠もり旅順要塞東北正面の一角を占めていた盤龍山東・西堡塁は、我が第三軍第九師団第六旅団(旅団長:一戸兵衛陸軍少将)の猛攻を受け陥落した。

 この戦いは、一戸旅団を構成する双璧、歩兵第七聯隊の聯隊長大内守静大佐、同じく歩兵第三十五聯隊の聯隊長折下勝造中佐が相次いで戦陣に斃れるという、戦慄すべき総力戦であった。

 

 写真は、奪取した盤龍山西堡塁を守る、第三軍後備歩兵第四旅団所属の兵士達。

 銃砲撃を避けることはもちろん、日差し、風雨をしのぐために塹壕の一角に掩蓋が被せられており、兵士達がその下で束の間休憩している様子が見える

 画面右、塹壕の壁に立てかけてあるのは、日本陸軍歩兵の主力銃器三十年式歩兵銃(製作者有坂成章の名をとって有坂銃とも呼ばれた)である

 

 

 

 

  盤龍山西堡塁占領後、配備された木製迫撃砲木製の筒を、竹を撚り合わせて作った箍(たが)で縛り、補強してある。射程距離300m。 

 

 

 

 

  盤龍山西堡塁に残されたロシア軍の砲。砲身も車輪も傷だらけの惨状。

 

 

 

 

  次の写真二枚は、盤龍山東・西堡塁陥落後、第九師団が鹵獲した敵の砲弾・弾薬等を貯蔵している様子。

 邱家屯南西部にある某所に集積されている状況を捉えたものである。

 

 

 

 

 

 

 

  攻城砲兵司令官(兼第三軍砲兵部長)豊島陽藏(てしま・ようぞう:左から二人目)少将と攻城砲兵司令部員。右から二人目は攻城砲兵司令官副官の奈良武次砲兵少佐。後年、東宮(迪宮裕仁皇太子:後の昭和天皇武官長、昭和天皇侍従武官長を務め、陸軍大将に昇った。

 

 

 

 

 

 

 

  鳳凰山南東高地に設置された攻城砲兵司令部画面右、稜線上に観測所(砲弾の着弾位置を観測する)が設けられている。

 

  明治三十七(1904)年月三十日午前十時五十分撮影。

 

 

 

 

 

 柳樹房における第三軍司令部。

 画面右端、一番奥に見える建物が、乃木希典軍司令官伊地知幸介参謀長が宿営として使用している小屋である。

 

 明治三十七(1904)年十月九日午前九時三十五分撮影。

 

 

 

 

  画面右端部分を拡大。

 

 

  

 

  

 

  王家甸南方に、二十八珊(センチ)榴弾砲を新たに据え付けるための軍路の新設と砲床用資材の運搬の状況。

 

 明治三十七(1904)年十月十二日午後一時十分撮影。

 

 

 

 

  鳳凰山と王家甸

 

 

  

 

 

 

 盤龍山東堡塁の歩哨線の一部。

 

 明治三十七(1904)年十月十四日午後二時三十分撮影。

 

 

 

 

 

  盤龍山東堡塁の登り口の掩蓋。

 

  明治三十七(1904)年十月十四日午後二時五十分撮影。 

 

 

 

 

  

 

  第九師団大島久直師団長(陸軍中将:中列中央)と幕僚。

 撮影場所は、当時第九師団が司令部を置いている姜家屯。

 

  明治三十七(1904)年十月十五日撮影。

 

 

 

 

 

 

 

 

  盤龍山西堡塁内を走る塁道の交叉点より、複郭陣地の一角を見上げた光景

 

  明治三十七(1904)年十月十五日撮影。

 

 

  

 

 

 

  盤龍山西堡塁の歩哨線の一部。彼方に二龍山堡塁が見える。

 

 兵士達の服装を見ると、十月中旬、満洲に早くも冬が訪れようとしているのがわかる。

 画面右に、不自然に黒く塗りつぶされた(ように見える)部分があるのにお気付きであろうか。一般公開が憚られるものが写っていた?のかもしれない

 

  明治三十七(1904)年十月十五日午前十時撮影。

 

 

 

 

  盤龍山西堡塁の塹壕の一角。

 

   明治三十七(1904)年十月十五日午前十時四十分撮影。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

  盤龍山東・西堡塁を死守するのは、東堡塁が一戸兵衛少将率いる第九師団第六旅団、西堡塁が竹内正策少将率いる後備歩兵第四旅団である。

 しかし、激烈な総攻撃を経て両旅団とも著しく疲弊損耗し、当初の戦力からすれば見る影もない。堡塁の争奪戦を闘い抜き、今そこにいる兵たちも、皆疲れ切っている。

 

 

 第九師団第六旅団第三十五聯隊に所属する日野信次三等軍医は、当時盤龍山堡塁を守備した日本兵の苦闘を記録し今に伝えた。

 

 

 第一回総攻撃時、一戸旅団の兵たちの奮闘により、盤龍山東・西堡塁は相次いで我が軍の掌中に落ちた。しかし攻略直後から周囲のロシア軍堡塁(いまだロシア兵が健在)から、盛大な銃砲撃を受けることになる。

 

 すこしでも動けば、たちまち銃砲弾が、雨あられと飛んでくる。ということは、身を守るための陣地構築すら、ままならないのである。

 

 塹壕を掘って陣地構築しようにも、敵の激しい銃砲撃のために、資材の運搬も思うにまかせない。塹壕を掘る際、身を銃撃から隠す遮蔽物すらない。

 そのような状況下、やむをえず、兵たちはある方法に頼らざるを得なかった。

 

 

 

 「付近にある(戦死した戦友の)屍体を(堤防風に)積み重ねて、一時的の遮蔽物とする。その屍体の陰に隠れてさかんに土を掘り、屍体を中心に土を盛り上げる」

 

 これが、盤龍山の急造塹壕であった、と日野軍医は回想するのである。

 

 

 

 

 塹壕の深さは1.5m、幅は1mほどで、側面に奥行四、五尺(一尺≠0.303m)ほどの土窟を設け、居住空間・待機空間・医療室代わりにした。

 

 

  横穴を掘って作った居住空間の天井は、鉄道用の枕木を並べて支えているのであるが、数に限りがあり隙間だらけであった。その上には当初遮蔽物として使った(使わざるをえなかった)屍体が並んでいる。

 

 「所々に、枕木の間から屍体の足や顔が出ているのは言うまでもない。第一日目はなんともなかったが、第二日目から屍臭が吹き降りてきた。臭いだけならよいが、三日目になると蛆虫(うじむし)がウヨウヨ這い出て来る。仰臥して寝ていると、顔の真ん中にポタリと落ちて来る。」

 

 ひどい屍臭を緩和するため線香が配布され、どの塹壕にも線香が林立した。しかし、線香の煙は蛆虫には効果はない。

 

 「そこで、新聞紙を枕木にはりつけた。寝ていると、その新聞の天井裏をゴソゴソと匍行する音が聴こえる」

 

 蛆虫の足音などめったに耳にできぬものだ、と思いつつも、その蛆虫が戦友の屍体を食って動いていると気付き、やるせない思いにかられた・・・・・。

 

 

 明治三十七(1904)年八月二十六日深夜、日野軍医は戦場掃除隊に加わることを命ぜられた。

 

  戦場掃除隊とは?

 

 戦死者の屍体を回収する役目、である。夜とはいえ、ロシア軍は終夜探照灯(サーチライト)を動かして戦場を照らし、警戒のため銃撃を繰り返している。作業は、ロシア軍の監視を逃れ、夜が明けぬうちに終えねばならない。

 

 

 夜陰に乗じて塹壕を出、戦場に立てば、漆黒の暗夜でも屍体の発見は困難ではない。

 

 「近寄ると、群がるハエがジャーンと飛び立つので、直ぐにわかる。ハエがとびのくと、その下層は一面の蛆虫が層をなして居る。暗夜でも、蛆虫の白さで顔面だということがわかる。」

 

 屍体は、夏の太陽熱にあぶられて「腐敗、膨張」しており、「張り切った空気枕」のような状態になっていた。

 

 「上衣のボタン一つ外すのも容易ではない。従って認識票DNA解析技術の存在しない時代であり、遺体から認識票か名前の記載された所持品等が発見できなければ、個人の特定は状況証拠から推測するほかない)を探すの、所持品を調べるのということは絶対に不可能である。」

 

  暗夜、手探りで腐乱した屍体を運ぶのは「不気味な難業」であった。

 

  「顔や手をつかむと、蛆虫のためにヌメヌメと滑る。屍体の足を持ってひきずると、ときに軍袴がズルズルと脱げる事がある」

 

  回収された戦友の屍体は、いくつも掘られた大きな墓穴に「四十人一組」で埋葬された。

 旅順陥落後、これらの屍体は掘り起こされて荼毘に付され、葬儀が執り行われたあと、遺骨となって遺族のもとへ送られたのである。

 

 

  この夜、埋葬作業が終わり、従軍僧が声を潜めて読経をはじめたころ、突如激しい雷雨が戦場をたたき始め、また時を同じくして、ロシア軍の一隊が夜襲をかけてきた。

 驚いた日野軍医一行は、地面を這って逃げ戻ったという。

 

 ところが、我が軍に対し、ロシア軍の夜襲よりも大きな被害を及ぼしたのは雨のほうだった。

 

 

 雷雨は盤龍山堡塁一帯を流れ下る奔流に変わり、堡塁奪取後、営々と施した防禦工事を押し流してしまった。

 疲れ切った兵が眠っている居住区の「新聞紙天井」は失し、蛆虫が盛大に降ってきたのである。

 

 ロシア軍に見つからぬよう、暗いうちに麓から運ばれる握り飯は汚水にまみれて崩れ、飲料水(採取した時点で既に濁り水なのではあるが)はひどく汚濁してしまった。

 

 塹壕内にはもともと便所はないため、兵たちは大少便とも付近で思い思いに済ませるしかない。トイレットペーパーが満足にあった筈もなく、風呂など夢のまた夢、顔や体を拭(ぬぐ)う水、用便のあと手を洗うための水もない。

 

 そんな兵達の生活空間に、糞便と屍体の腐汁の混じった汚水が大量に流れ込んだため、たちまち堡塁内に大腸カタルが蔓延しはじめたのである。

 罹病した兵は、岩陰で血便を排泄するしかないため、罹患者の数は日を追って拡大するばかりであった。

 

 「凡(およ)そ不衛生不潔の極点であり、盤龍山占領直後の守備くらゐ予の一生を通じて印象にのこっているものは、ない。」

 

 

 

 

 日野軍医は後年、以上のように当時を回想している。

 

 いつ果てるともわからぬ敵との対陣。一瞬の気の緩みは自分の、部隊全員の死につながる・・・、しかも生活環境は想像を絶する劣悪!

 

  

 

 すべてにじっと耐え、日本国を守るために自らの持ち場で務めを果たし続けた有名無名幾多の先人よ、感謝、致します。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

  東鶏冠山砲台に向かう対壕の第三歩兵陣地。

 土嚢の隙間から、ロシア軍の動きをじっと監視する兵が手前に一人、向こうに二人。この日明治三十七(1904)年十月二十六日、第二回総攻撃が再開されたのである

 今回の攻撃目標は、松樹山堡塁二龍山堡塁東鶏冠山北堡塁P堡塁東鶏冠山第一二堡塁東鶏冠山砲台とくに前三者は、その外敵の攻撃に対する堅牢な構造から、永久堡塁と呼ばれる難敵であった。

 

  明治三十七(1904)年十月二十六日撮影。

 

 

 

 

 

 

  我が砲兵による砲撃が続く東鶏冠山北堡塁を、第三歩兵陣地より撮影

 

 画面右端に一部のみ写り込んでいるのは、旅順要塞東北正面で最も標高の高い堡塁望台(別名一八五高地)である。

 

  明治三十七(1904)年十月二十六日午後二時三十分撮影。

 

 

 

 

 

 

 我が軍による総砲撃を受けている二龍山堡塁龍眼東方地点より撮影。

 

  明治三十七(1904)年十月二十六日午後三時五十分撮影。

 

 

 

 

 

 

 次の写真は、上の写真の左半分を拡大したものである。 

 

 A・・・砲撃目標である塹壕が、この砲煙の下にある

 

 B・・・第九師団第十八旅団第十九聯隊第一大隊が十月十六日に奪取した敵塹壕

 

 ・・・我が歩兵の突撃陣地

 

 ・・・戦況を見守る衛生隊 

 

 

 

 

 

 

 

  東鶏冠山砲台に至る対壕第三歩兵陣地から、東鶏冠山を望見する。

 画面左、砲煙が上っている方の高地が東鶏冠山砲台、右の高地が東鶏冠山北堡塁である。

 

  明治三十七(1904)年十月二十六日午後四時二十五分撮影。

 

 

 

 

 

 

 

  第九師団第十八旅団第十九聯隊による二龍山堡塁への突撃が始まる直前の光景。

 

 画面左の黒煙は、第十九聯隊の突撃陣地から放たれた迫撃砲の爆発である。この時、突撃部隊は既に敵塹壕直下に迫っており、敵機関銃の猛射をくぐって突撃路の開削に当たっているところだと思われる。

 

 しかし、攻撃はことごとくロシア軍に跳ね返されてしまうのである。

 

  明治三十七(1904)年十月二十六日午後四時五十五分撮影。

 

 

 

 

 

 

  八里庄北方の畑地より、東鶏冠山砲台を望む。第十一師団第二十二旅団第十二聯隊による攻撃が続いている

 

  明治三十七(1904)年十月三十日午後一時三分撮影。

 

 

 

 

 

  松樹山堡塁内部で火災が発生している状況。

 

 明治三十七(1904)年十月三十日午後一時五十分撮影。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  再開された第二回総攻撃は十月三十一日、乃木希典軍司令官の命令により中止される。

 

  今回の作戦において第三軍が占領を企図した堡塁群のうち、占領できたのは、第九師団第六旅団第三十五聯隊が攻略したP堡塁のみである。一戸兵衛少将指揮する第六旅団は、盤龍山東・西堡塁の奪取に続く戦功であった。

 が明けて十一月三日の天長節(明治天皇の御誕生日)を祝う式典のおり、乃木軍司令官は一戸少将の功を顕彰し、P堡塁を「一戸堡塁」命名することを発表したのである

 

 第九師団第六旅団長戸少将は、翌年三月の奉天大会戦直後、負傷しやむなく帰国が決まった第三軍の松永正敏参謀長(伊地知幸介→小泉正保→松永正敏)に代わり、参謀長(第四代:最後)に就任して乃木第三軍司令官に仕えることになる。

 

 

 

 

 

 

  次の写真は、病院船ろひら丸に乗船するため、我が軍の傷病兵とロシア軍の捕虜が待機している様子。

 

  明治三十七(1904)年十一月十一日撮影。

 

 

 

 

 

 小孤山山頂の歩哨線より、鹽廠(えんしょう)の海岸を望む。下の写真では、水平線がぼんやりしていてわかりにくい。

 

 明治三十七(1904)年十一月七日撮影。

 

 

 

 

  

 

   我が砲兵による総砲撃を浴びている東鶏冠山北堡塁第三歩兵陣地の銃眼から撮影。

 

  明治三十七(1904)年十一月二十六日午後零時四十五分撮影。

 

 

 

 

 

  我が砲兵による総砲撃を浴びている東鶏冠山砲台第七歩兵陣地の銃眼から撮影。

 

 

  明治三十七(1904)年十一月二十六日午後零時五十二分撮影。 

 

 

 

 

 

  

 

  第十一師団第十旅団第二十二聯隊が、東鶏冠山北堡塁への突撃のために掘進を続けていた坑道に大量の爆薬を仕掛け、堡塁前面の胸墻(きょうしょう:銃眼を備えた、胸の高さほどの壁)地下で爆発させた瞬間。

 

 この大爆発が合図となって、第三回総攻撃が開始された。

 

 この写真のキャプションには、カポニエールの爆發、とかれているのであるが、カポニエールとは和訳すると側防窖室(そくぼうこうしつ)呼ばれるもので、要塞の前面を突破して堀内部に侵入した敵を誘い込み、一挙に掃射殲滅するための施設である

 

 明治三十七(1904)年十一月二十六日午後一時撮影。

 

 

 

 

 

 

  大爆発直後、東鶏冠山北堡塁の胸墻の破壊口目指して第十一師団第二十二旅団第十二聯隊が突撃を敢行している写真である。この写真では見にくいが、白い煙と稜線の間に、芥子粒のような人影が多数見える。

 

 明治三十七(1904)年十一月二十六日午後一時八分撮影。

 

  

  該当部分を拡大。

 

 

 

 

 

 

  東鶏冠山砲台の中腹にある塹壕に、第十一師団第二十二旅団第十二聯隊が突撃を敢行している写真の二枚目

 

 明治三十七(1904)年十一月二十六日午後一時十二分撮影。

 

 

 

 

 

  東鶏冠山砲台に突撃を敢行している第十一師団第二十二旅団第十二聯隊に対し、周囲の敵砲台から銃砲撃が集中している

 

  明治三十七(1904)年十一月二十六日午後一時四十分撮影。

 

 

 

 

 東鶏冠山北堡塁正面に対する突撃隊に、増援部隊が参加。

 

 明治三十七(1904)年十一月二十六日午後一時五十三分撮影。

 

 

 

  画面左、稜線付近を拡大。

 

 

 

 

 

 

 

 

 満洲軍総司令官大山巌の要請により、明治三十七(1904)年十一月十一日、内地に残されていた最後の戦略兵団である旭川の第七師団(師団長 大迫尚敏中将)の、第三軍への増派が決定された。

 

  満を持して海を渡った第七師団は、休むことなく第三回総攻撃の只中に飛び込み、二〇三高地攻略戦に挑むのである。

 その戦いは、旅順において先陣を切った第一、第九、第十一師団や独立旅団にいささかも劣るところのない、鬼気迫るものとなった

 

 

 写真は、大連港に第七師団第二輜重監視隊が上陸している模様

 

 明治三十七(1904)年十一月三十日撮影。

 

 

 

 

 

 周家屯に設置された野戦郵便局で、職員が事務をとっている様子を撮影した一枚

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

「日露戰役寫眞帖」大本營寫眞班撮影 陸地測量部藏 小川一眞出版部刊より

 

 

 

  (参考文献)

 

 「日露戦争 1~8」児島襄著 文藝春秋

 

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