明治三十九(1906)年日露戦役から凱旋後、故郷山口県長府に帰り、長府小学校の校庭に佇む乃木希典。
福田和也著「乃木希典」(文藝春秋刊)のカバーに使用された写真である。


小學唱歌 「水師營の会見」
作詞:佐佐木信綱 作曲:岡野貞一
一、
旅順開城約成りて
敵の将軍ステッセル
乃木大将と会見の
所はいづこ水師營
二、
庭に一本棗(ひともとなつめ)の木
弾丸(だんがん)あとも著(いちじる)く
くづれ残れる民屋(みんおく)に
今ぞ相見る二将軍
三、
乃木大将は厳(おごそ)かに
御(み)めぐみ深き大君(おおきみ)の
大みことのり伝うれば
彼かしこみて謝しまつる
四、
昨日の敵は今日の友
語る言葉もうちとけて
我はたたへつ彼(か)の防備
彼はたたへつ我(わ)が武勇
五、
かたち正して言い出でぬ
「この方面の戦闘に
二子を失い給いつる
閣下の心如何(いか)にぞ」と
六、
「二人のわが子それぞれに
死所を得たるを喜べり
これぞ武門の面目」と
大将答え力あり
七、
両将昼食(ひるげ)ともにして
なおも尽きせぬ物語
「我に愛する良馬あり
今日の記念に献ずべし」
八、
「厚意謝するに余りあり
軍のおきてにしたがひて
他日我が手に受領せば
ながくいたはり養はん」
九、
「さらば」と握手懇(ねんご)ろに
別れて行くや右左
砲音(つつおと)絶えし砲台に
ひらめき立てり日の御旗
※You Tubeに、完全なもの不完全なもの様々なヴァージョンがアップされているので参考にされたし。
佐佐木信綱(ささき・のぶつな)
明治五(1872)年六月三日誕生~昭和三十八(1963)年十二月二日歿

三重県鈴鹿の生まれ。歌人、国文学者。国学者佐佐木弘綱の長男。
高崎正風に和歌を学ぶ。明治二十一年(1888)東京帝国大学卒業後、短歌革新運動に参加。歌集『思草』(1903)、『新月』(1912)等がある。一方で、万葉集や歌学を研究、明治三十七(1904)年以降二十六年間にわたり母校東京帝大で教鞭を執る。『日本歌学史』(1910)、『和歌史の研究』(1915)、『校本万葉集』(1924~25)等の編著がある。昭和十二年(1937)第一回文化勲章受賞。文学博士。学士院・芸術院会員。
(国立国会図書館 近代日本人の肖像より)
東京帝大で教鞭を執るかたわら気鋭の歌人としても知られていた佐佐木信綱のもとに、明治三十九(1906)年某日文部省より、唱歌数篇の作詞を委嘱したい、との依頼状が届いた。
第二期国定唱歌教科書・尋常小学読本に教材として掲載したい、というのである。
教職にある自分にとって、帝國臣民の子弟が学ぶ教材の作成に微力を尽くす機会が与えられることは大変名誉なことであり、辞退する理由はない。
そう考えた佐佐木がさらに依頼状を読み進めてみると、その依頼のなかに、唱歌の題目として「水師營の会見」というものが掲げられていた。
「水師營の会見」といえば乃木将軍である。その事績は、いまや日本人なら誰でも知っていることではある。
しかし、いやしくも日本国の将来を担う全国の子弟が読む教科書に教材として掲げるということであれば、正確の上にも正確を期すため、是非乃木将軍に直接お話を伺うことが必要であろう・・・。
とはいえ乃木将軍とは一面識もない自分であるから、どなたかにご紹介をお願いするしかない。
佐佐木が早速訪ねた相手は、大学の先輩であり、作家と軍人との二足の草鞋をはいて活躍していた当時陸軍軍医総監の森林太郎(鴎外)である。
森は、ドイツに留学(明治十七~二十一年)していた若い頃から十三歳年上の乃木希典(明治二十年一月から一年半、ドイツに留学)に兄事し、乃木の息子たちが長じてからは、彼らが読むドイツ語の書物の良否などまで希典から相談を受ける間柄であった。
森鴎外(本名:森林太郎)

佐佐木の話を聞いた森林太郎は快諾し、乃木に取り次いでくれることになった。
後日、森鴎外のつてを得て赤坂の乃木邸を訪問した佐佐木信綱は、名刺を出し来意を告げると、早速応接間に通された。
乃木家の当主たる彼の人は、かねてよりよく知られた温容を湛え、すぐに応接間に現れた。
立ち上がった佐佐木信綱は深々と頭を下げ、森軍医総監にご紹介をいただきました佐佐木でございます、と名乗り、面談を許された礼を述べ時候の挨拶などのあと、実は本日お伺い致しましたのは・・・と本題に入った。
文部省より、小学校児童向けの教科書に載せる唱歌を作詞するよう委嘱を受けていること、題目の中に「水師營の会見」があること、新聞等を通じ概略は知っているものの、将軍のご了承を頂いた上で、正確を期すため将軍に直接詳しいお話を伺い、是非将軍にもご納得をいただける作詞をしたいと考えていること等を述べたのである。
乃木将軍は、しばらく黙って佐佐木の話を聞いていたが、やがて
「それはご辞退いたしたい・・・、私自身のことを読本に載せるなど、恐縮でありますから、お断りいたしたいと存じます。」
と言うのである。
しばらく話を続けたものの、将軍はどうしても首を縦に振ろうとはしない。
しかし佐佐木が、
「このお話は文部省が既に決めたことでありますから、(自分が今日は帰ったとしても)いずれまた誰かがお願いに参ることと存じますので、なにとぞお考え置きを願います」、
と述べると、将軍は下を向き、しばらくの間じっと何事か考えているようであった。
やがて顔を上げた将軍は、
「そう決まっているものならば、あなたにお頼みしましょう。しかし間違いがあるとよくない、当時私の側で参謀、副官を務めてくれた安原大尉がいま少佐になっているので、少佐にも来てもらって改めてお話をいたしましょう。日時と場所については、改めてお手紙でお知らせすることにいたします。」
と言い、佐佐木に協力することを約束してくれたのである。
後日、将軍から手紙が届いた。
「〇月☓日△時、偕行社でお会い致しましょう」とある。
偕行社・・・陸軍将校の修養研鑽と団結を主な目的として、明治十(1877)年二月十五日に設立された集会所及びそれを起源とする団体。
現在は「戦没者及び自衛隊殉職者等の慰霊顕彰、安全保障等に関する研究と提言、自衛隊に対する必要な協力、並びに定期刊行誌『偕行』等により防衛基盤の強化拡充に寄与し、もって我が国の平和と福祉に関する国政の健全な運営の確保に資することを目的とする」としている。(偕行社HP)

(Google Earth)
当日、佐佐木信綱が約束の時間に九段下の偕行社(現東京理科大学九段校舎)を訪れると、将軍と少佐は既に到着しており、にこやかに佐佐木を迎えてくれた。
恐縮した佐佐木は、何度も頭を下げた。
画面右が安原啓太郎大尉。中央は落合泰蔵軍医部長、左は吉田丈治経理部長。
(於:旅順 米写真家バートン・ホームズ撮影)


(Google Earth)
一室に入り、机を挟んで片方に佐佐木信綱、反対側に乃木大将と安原少佐が並んで座った。
乃木将軍は、あの日の会見、その前後の様子を、記憶を辿りながら詳しく話してくださった。
将軍の横におられる安原啓太郎陸軍少佐も、将軍のお話を補足するように、折々に言葉を添えてくださったのである。
とはいえ、私が書かねばならないのは小学生が習い、歌う唱歌である。
長さ、文字、語彙などにも厳然と制限があるため、私が将軍や少佐が語ってくださったお話から得た事実、感銘をすべて歌にすることはできぬ、と思わざるをえなかった。
どうやら約束の時間が来て、私たちは立ち上がることになったのであるが、最後にふと頭に思い浮かんだ質問をした。
「その庭には、何か木がありませんでしたか?」
将軍は、そういえば棗(なつめ)の木が一本あったのう、と云われる。
少佐も、ありました、弾丸の跡がおびただしくついておりましたね、と云われた。
(参考:佐佐木信綱「明治大正昭和の人々」)
以上の、偕行社におけるインタビュー取材をもとに、佐佐木信綱は精魂を込めて作詞に打ち込んだ。そして完成したのが上記「水師營の会見」なのである。
お読みいただければ判るが、難しい漢字、語彙は一切使用されていない。
会見の情景を、時の経過そのままに、小学生にも理解できる言葉を使って、短いが実に達意の文章で歌いやすくリズミカルに綴った、読めば読むほど滋味深い一編である。
大東亜戦争敗戦前の我が国においては、大人も子供も、男も女も、誰知らぬ者のない歌、であったのだ。
難しい専門用語(らしきもの)や外来語を多用したこけおどしの文章は、例えば凡夫の見本である私や、不勉強な学生にもそれなりに書け、体裁を繕うこともできようが、本作のようにごく基本的な語彙だけで編まれ、虚飾を極限まで削り排除した精髄だけの文章は、日本語を知りつくし学問的素養と創作の鍛錬を十分積んだ者にしか書けないのではないだろうか。
さて、明治三十八(1905)年一月五日午前十一時三十五分、半歳に及ぶ旅順攻囲戦を戦った日露の二将軍は、ここ水師營の民家の一室で、粗末な長方形の卓を隔てて対座していた。
ステッセル

水師營会見所
この建物は、支那共産党政府が日本人観光客目当てに復原したもの。
ciaofushimiさん投稿映像

(Google Earth)
両将は、互いに会見の機会を得て嬉しい、と述べあい、乃木大将は天皇陛下の御叡慮を伝え、ステッセル中将は謝辞を返し、また、第三軍がロシア関東軍とロシア皇帝との通信に便宜供与を惜しまないことに感謝した。
続いて両将は、双方の随員の紹介を行い、その後はいわば雑談に入った。
ステッセル中将は、日本軍砲兵による射撃の威力、工兵隊の果敢な行動を賞賛し、特に攻城砲兵を指揮した人物の手腕を称え、乃木大将が豊島陽藏少将の名を明かすと、副官に命じて豊島少将の名を筆記させた。
対して乃木大将はロシア軍の防禦施設の堅牢さに、感嘆の意を表明したのである。
それを受けステッセル中将は、防禦施設の構築にあたり中心的役割を果たしたのはコンドラチェンコ中将と某工兵大佐であるが、両人とも既に戦死していることを告げた。
続いて居住まいを正したステッセル中将は、乃木大将が愛育してきた二人の男子、勝典と保典をともに、ここ遼東半島の戦場で亡くしたことに哀悼の意を表明した。
乃木大将がそれに対し、武門の家に生まれた二人が戦場に死所を得たことは、自分も当人たちも満足とするところです、と述べると、ステッセル中将は、「人生の最大幸福を犠牲にして嘆かないとは、閣下は天下の偉人であります、私などとても及ぶところではありません」、と嘆賞した。
乃木大将がステッセル中将に「閣下には御子息はおられるのか」と尋ねると、中将は近衛歩兵中尉としてペテルブルグにいると答えた。
さらに続けて、「(日露戦争が始まり)息子は極東勤務を希望したが、この戦役は私が望んだものではなかったので、皇帝陛下からの勅命がない限り、おまえは自ら求めてここに来るべきではない、と戒めた」と言ったのである。
通訳する川上俊彦がこのくだりで眉をひそめ、日本側一同も首をかしげたという。
自分が望んでいない戦いだから、本人の希望はどうあれ自分の息子は呼ばない、という発言は、日本側には理解しがたい言説であった。
しかし中将は日本側の怪訝な顔にはかまわず、自分の乗馬であるアラビア種の駿馬を乃木大将に進呈したいと述べた。
この申し出を受けた乃木大将は、中将の御厚意まことにありがたい、軍の規則に従って手続きを行い、もし認められれば受領し、長く大切に養います、と返した。
これに続き、乃木大将はロシア軍の戦死者の墓の保護について何かご要望等ありや、と中将に尋ねたという。
中将は、実はひとつ要望があります、と述べた。
「東鶏冠山北堡塁の西南方に小さな丘があります。名付けてロマン山と申します。コンドラチェンコ中将の名に因んだ名前です。この地に、コンドラチェンコと、彼とともに戦死した将校たちの墓があります。もしこの墓を保護していただけるならば、幸いです。」
乃木大将はこれを聞き、「承知しました。御安心ください。」と述べた。
大将が確約してくれたことに感動した中将は、
(ス)「願わくば、この戦役をもって日露両国の紛争の終末として、将来は永く盟邦、良友として進退行動を共にしたい。」
(乃)「予も両国の友好を望みます。貴国ロシア人は体躯長大にして防禦に長じており、我が日本人は矮小なれど攻撃の気性に富んでいます。両者が力を合わせれば、恐らく天下に敵する者はないでありましょう。」
(ス)「その通り、まさにその通りです。この構想が、一日も早く実現することを願います。」
(乃)「先決問題として、日露の国交が早く恢復して、再び閣下と一同に会することを望みます。」
(ス)「予もまた、衷心よりこれを希望します。」
午後零時十五分、会談は終了し、両将軍と随行者たちは昼食の席を囲んだ。
午後零時五十五分、昼食は終了し、全員中庭に出た。
従軍記者たちの希望を容れ、ただ一枚の記念写真が撮影されたのはこのときである。

時の運により片方が勝ち、他方は敗れたとはいえ、勝者も敗者も、ともに国家に忠誠を尽くし全力で闘ったのである。
勝者と同様敗者も、名誉と尊厳をもって遇されて当然である・・・。
ステッセルとその従者にも帯剣を許し、武人の名誉を保たしめよ・・・明治大帝の思召しは、等しく乃木希典の信念でもあった。日本国民も、それを諒とし、称えた。
日本武士道に並び立つ、あるいは匹敵する価値観が、例えばかつて列強と呼ばれたヨーロッパ諸国に、またアメリカ、ソ連、支那に、存在していたであろうか。
日本武士道の光輝を感じ取ることのできる人々は、我が国以外にも確かにいた。しかし、日本武士道を体現できる民族は日本人のみであること、一目瞭然であろう。
写真撮影の後、ステッセル中将は乃木大将に進呈する愛馬の運動能力を披露するため、皆の前で庭を乗り回したが、狭いため十分に運動ができず、しぶしぶ中止した。
ステッセルの愛馬。乃木大将に贈られ、壽號(すごう:寿号)と名付けられた。

午後一時二十分、両将軍は握手を交わし、訣別の時を迎えた。
旅順市内の官邸に帰るステッセル中将一行には津野田大尉が随行することになった。
水師營を発って松樹山麓の広い河原に来ると、中将は再び愛馬を駆って走らせ、調教が良好であることを津野田大尉に見せ、大将によろしく報告してくれるよう求めた。
午後三時三十分、旅順市内の官邸に帰着したステッセル中将一行は、中将のウェラ夫人に出迎えを受けた。
入室した一行はウェラ夫人や津野田参謀を前に、乃木大将とは真に好箇の武人だ、白髪童顔で威厳と温容が兼備する良将軍だ、などと讃え、それを聴いていた夫人は、「それほどに良き将軍ならば、私も一度拝顔したいと思います。是非食事にご招待したいので、大尉殿、よろしくお取り計らい願います。」などと真顔で話したので、大尉は、乃木将軍は大変お忙しい方でありますので、その儀はなかなかむつかしかろうと存じます、と逃げた。
津野田大尉はステッセルから、貴殿にはいろいろ御面倒をおかけしたからと、かつて北清事変のとき入手したというドイツ製騎兵銃を記念に手渡された。
第三軍司令部に戻った津野田大尉は早速軍司令官室に直行し、ステッセル夫人から、軍司令官を食事にご招待したいとの申し出がありました、と報告した。
乃木大将はそれを聞くや苦笑して、
「そうかね、有難う」と答えたという。
明治三十七(1904)年五月三十一日、出征を控え広島にいた乃木将軍は、息子達が記念撮影した片山写真館で、息子達が写った写真のガラス原板を手に記念撮影をしている。
よく知られているのはAであるが、B、いわば別テイク写真も存在する。
A

B

ステッセルらが旅順を退去する日と定められたのは、一月十一日である。
一月十一日午前八時、大連まで護衛の任を命じられている津野田大尉を伴い、馬車で官邸を出発したステッセル中将夫妻と一行は、長岺子駅に着くや見送りの伊地知参謀長らと握手し、再会を約して列車に乗り込み、大連に向けて出発した。
午後、大連埠頭に列車は到着、列車を降りた中将らは港に停泊している貨客船鎌倉丸(長崎港行き)まで歩き、乗船した。
大連に駐箚する遼東守備軍司令官の西寛二郎陸軍大将が見送りにやってきたが、会見に同席した津野田大尉によれば、ステッセルはこの時は乃木大将との会見で見せた謙譲の風を表すことなく、敗軍の将とは思えない豪然たる態度であったという。
津野田大尉はこの夜、大連港に停泊したままの鎌倉丸で一泊した。
翌一月十二日朝、ステッセルらに別れを告げるため、船室を訪問した。
ステッセルは改めて、乃木大将の厚意に対し深謝する旨述べ、謝辞を記入した名刺を大尉に預け、正式な御礼状は帰国後に認めるつもりだと語った。
さらに、乃木大将に贈呈した馬をくれぐれも可愛がってやってほしい、と最後に付け加えた。
また参謀長伊地知少将に対しても、くれぐれもよろしくお伝え願う、とのことであった。
離別に当たって乾杯し、船室を出ようとしたとき、同輩のニェヴェルセコ、マルチェンコの両中尉は、一緒に長崎に行かないのか?などと言う。
貴殿の仕事はもはや終了したのだから、(日本に)帰っても問題はないのではないか、などと本気のように言うので、「日本人としては、そのようなわけにはいかん」と応え、船を降りた。
鎌倉丸(奇縁であるが、終戦後乃木大将以下第三軍司令部一行が帰国に際し乗船したのもこの鎌倉丸である)はこの日長崎に向けて出港し、見送りを済ませた津野田大尉は旅順に引き返したのである。
我が第三軍は明日一月十三日旅順入城、そして一月十四日招魂祭を挙行し、時を措かず北へ奔らねばならないのだ。
日露戦争は、明治三十八(1905)年九月五日(日本時間)のポーツマス条約締結により終局している。
しかし旅順攻囲戦終結直後、祖国に帰還していたステッセル中将は、旅順開城の当否をめぐって責任を追及され、軍法会議にかけられていた。
その結果、明治四十一(1908)年二月に死刑判決を受けたのち、直ちにモスクワ市内セントポールの刑務所に収監されたのである。あとは、刑の執行を待つばかり、の筈であった。
そのことを聞き知った乃木大将は、当時フランスのパリに駐在していたかつての部下津野田少佐(奉天会戦後昇格)に書簡を送り、資料を準備するので、御苦労だがステッセルを弁護するため、欧州各国の有力紙に投書をするようにと指示したのである。
乃木大将からパリの津野田少佐に送られた手紙

死刑判決を受けた後、その所感を津野田少佐に知らせたステッセルの手紙

津野田少佐は、地元パリはもちろん、ロンドン、ベルリン等ヨーロッパ列強の首都の有力新聞に次々と投書し、ステッセル中将による開城の決断は已むを得ざるものであり、十分に戦い抜いた後の熟慮の結果であったこと、旅順要塞を陥落せしめた当事者、日本陸軍の乃木希典大将も敵ながらステッセル中将の功績を高く評価していることを強調した。
津野田少佐の張った論陣が、ロシアの軍法会議の審議にどれだけの影響を与え得たのかを数量化することはできない。
しかし明治四十二(1909)年四月ロシア陸軍省は一転して特赦を発表し、死刑囚アナトリー・ミハイロビッチ・ステッセルを、改めて禁固十年に処する旨公表するに至ったのである。
海の英雄東郷平八郎と並び立つ、陸の英雄としてその名が世界に轟く乃木希典大将が、旅順要塞の総帥ステッセルの戦いを高く評価している・・・・・乃木大将の意を受け津野田少佐が条理を尽くして説いた弁護論は、本来動くはずのないものを動かした、と言えるのではないだろうか。
やがて保釈の身となったステッセルは釈放されたが、しかしすべてを失い、生活に窮していた。
遠い日本からかつての敵ステッセルの身を案じていた乃木大将は、そのことを知るや匿名で、少なくない金銭を送り続けたという。
明治四十五(1912)年七月三十日、明治大帝が崩御され、即日元号は大正元年と改元された。
大正元(1912)年九月十三日夜八時、大行天皇御大葬の葬列の出発を知らせる弔砲が帝都に轟くや、乃木希典・静子夫妻は、覚悟の殉死を遂げたのである。
このころ島根県松江で軍務に精励していた津野田是重中佐(明治四十四年一月昇格)も将軍夫妻の突然の悲報に驚愕し、弔問のため上京、赤坂の乃木邸に駆けつけた一人であった。
九月十八日、葬儀は滞りなく終了した。
後日、追善法要のため改めて上京した津野田中佐は、乃木大将の甥の玉木正之から、妙なことを尋ねられたのである。
「伯父(乃木希典)は旅順にいる時分、ロシア人の僧侶に何やら功徳を施した経緯でもあるのでしょうか・・・?」
いきなりそのようなことを聞かれ、面食らった津野田中佐は、それは一体どういうことですか、と反問した。
玉木はこれに答え、
「実は伯父の死去に際し、皇室からの御下賜金に次ぐほどに巨額の見舞金が、ロシアから郵送されてきておりまして・・・。差出人の名はなく、ただモスクワの一僧侶としか書かれていないのです。常に伯父の側に居られた中佐殿ならお心当たりがあるやと思い、お尋ねした次第なのですが・・・。」
心中閃くものがあった津野田中佐は、答えた。
「それは、僧侶などではなく、恐らくステッセル将軍ではありますまいか。」
もとより何ら物的証拠があるわけではない。しかし津野田中佐には、確信があった。
実はステッセルは軍法会議で死刑を求刑された後、次のような最後の弁論を行っていた。
「もし旅順開城の責任を血を以て償罪せよと言われるのならば、その血とはすなわち、私の血である。この上連累者を求め、無益な犠牲者を増やす必要はない」と叫び、責任を取るべき人間は自分しかいない、と、決然として認めたのである。
ステッセル

(Wikipedia)
乃木大将は水師營の会見の後、津野田大尉らに、ステッセルはいかにも男らしい軍人だと思う、と語っていたのだという。
そう考えるからこそ、礼を尽くして遇し、ヨーロッパの世論を喚起してステッセルを支援しようとし、また匿名で金銭の援助を続けたとも言えよう。
ステッセルも、かつての大敵、しかし戦役の後には、陰になり日向になり自分を助けてくれた乃木希典という異国の武人に対して、感謝と尊敬の心を抱いていたに違いない。
軍法会議で死刑判決を受けたものの、特赦により減刑され釈放されたステッセルはモスクワ郊外の農村に移り住み、軍歴とは無縁の仕事に従事して、静かに暮らしていた。
あの乃木大将が、敬愛する日本国天皇の崩御を悼み妻とともに自決した、との報が彼の許に届いたとき、彼の脳裏に去来したものが何だったのかはわからない。
ステッセルが鬼籍に入ったのは、大正四(1915)年一月十八日である。
乃木大将の死に遅れること、二年と四か月。
あの水師營の会見から、ちょうど十年が経った直後の死、であった。
ロシア帝国とロマノフ王朝に、終末の時が近づきつつある。
二十世紀の世界を覆った大災厄、共産主義が牙を剥き始めていた。
(参考文献)
津野田是重「斜陽と鐵血」(偕行社)
大濱徹也「乃木希典」(講談社)
児島襄「日露戦争 5」(文藝春秋)
岡田幹彦「乃木希典 高貴なる明治」(展転社)
その他
by msmania
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