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日本国の肖像:その四十 紀元節奉祝 ある昭和の記憶 四

2012/02/11 05:00

 

 

 

 

紀元節 奉祝

 

 

 

 

迪宮裕仁親王殿下御肖像(先帝陛下)

 

 

 

 

 

 

母君香淳皇后(昭和天皇妃)に抱かれる継宮明仁親王殿下(今上陛下)

 

 

 第百二十四代、そして第百二十五代・・・我が日本国の皇統を継ぎ給うたお二人の、御幼少時 の尊い御姿である。

 

 (Wikipedia)

 

 

 

  天皇皇后両陛下のますますの御健勝を御祈念申し上げますとともに、併せまして平成二十四(2012)年二月十一日、皆様とともに紀元節の佳き日を寿(ことほ)ぎたいと存じます。

 

                                                    nobby

 

 

 

 

 帝都御巡幸

 

 

 昭和二十一(1946)年二月十九日と二十日の両日、全国御巡幸の第一歩を神奈川に捺された先帝昭和天皇は、 九日後の二月二十八日(木)と翌三月一日(金)御膝元である帝都東京の御巡幸のため再び皇居をお出ましになられた。

 

 

 東京は前年三月十日と五月二十五日の大空襲により、一面瓦礫の焼野原である。

 

 

 

 

 当時の東京

 

 

 (Wikipedia)

 

 

  三月十日の大空襲直後の東京

 

 (Wikipedia)

 

 

 

 

 この日、昭和二十一(1946)年二月二十八日(木)朝、皇居を出発された陛下の御車は、まず京橋に焼け残っていた第一相互館第一生命保険のかつての本社ビル。十階建てで、当時都下有数の高層ビルであった。現在この敷地には第一生命保険が新たな賃貸ビルを建設中で、完成予定は平成二十四年六月末。住所は中央区京橋三丁目一番、国立近代美術館フィルムセンターと、ビル二棟を挟んで右隣にある)にお立ち寄りになり、屋上から都内を展望された。

 

 

 

 

 次の三枚は、大正十二(1923)年九月一日に発生した関東大震災直後第一相互館屋上から撮影された写真である。

  二十三年後の和二十一(1946)年二月二十八日(木)朝、第一相互館屋上にお立ちになった先帝陛下の眼前に広がった光景は、これにも劣らぬ凄惨なものであったはずである。

 

 

 

(Wikipedia)

 

 

 

 

 皇祖皇宗が、大御宝(おおみたから:日本国民のこと) と手を携えて守り続けてこられた日ノ本は今、かつてない荒廃の極みにある。 

 

 自分にできることは、あまりにも多くの大切なものを失ってしまい、心折れ、傷つき、未曽有の苦難の淵に沈んだ全国の国民のもとを訪ね歩き、慰め、励ますことである・・・。

 

 それは皇祖神武天皇の御創業以来、史上かつてない規模で挙行する行幸、巡幸であり、いったいどれだけの時間がかかるのか、にわかには想像もつかぬ。

 

 しかし、皇祖神天照大御神をはじめ八百萬(やおよろず)の神々、祖父明治帝、父大正帝、そして歴代皇祖皇宗の御神霊が、力を合わせ復興に邁進する我が大御宝の畢生の力闘を嘉し給い、陰ながらお力添えを賜るやもしれぬ

 

 

 

 先帝陛下の大御心は、まさにここにあったのではないか

 

 

 畏れながら先帝陛下に、日本復興の道筋がすべて見えておいでであったとは思えない。

 

 しかし、打って一丸となったときの日本国民の強さ、頑張りを、誰よりも信じ、微塵も疑ってはおられなかったのが、まさしく先帝陛下であられた

 

 そして全国の国民の志も陛下の大御心に感応し、御巡幸一行の赴くところ津々浦々、打ち振られる日の丸とともに、歓呼と感涙を以て陛下をお迎えしたのである。 

 

 

 

 

 戦前、銀座三丁目のビル屋上(松屋?)から京橋方面を撮影した写真。画面右奥に見える一際高い建物が第一相互館である。

 

 

 

 

 

 (Google Earth)

 

 

 (Google Earth)

 

 

 

  第一相互館を後にされた陛下は、続いて日本橋浜町を経て小石川区春日町(現在の文京区春日一丁目及び二丁目)の焼け跡に建てられたバラックの簡易住宅に御成りになった。

 

 この住宅は一戸当たり面積わずか六坪(3.3㎡×6=19.8㎡)で、百戸ほどが肩を寄せ合うようにして並び、戦地で父や夫、息子を失った遺家族、あるいは空襲で家族をまた家屋敷や職場を失った人々が暮らしている。

 

 陛下は、住宅前の広場に集まった被災者たちに親しく話しかけられた。特に、家族を亡くした戦災者には懇ろなお慰めの御言葉を賜り、皆、感極まって泣いた

 

 

 陛下の御一行は、次に窪町小学校(文京区大塚三丁目にある区立小学校:当時は国民学校そして午前中最後の日程として鶴巻小学校(新宿区早稲田鶴巻町にある区立小学校:当時は国民学校)を相次いでご訪問になり、次代を担う子供たちの授業風景をご覧になったのである

 

 

 窪町小学校(旧校舎:同校HPより)

 

 

 

 

 鶴巻小学校(同校HPより)

 

 

 

 

 

 

 (Google Earth)

 

 

 

 

 陛下は新宿御苑で御昼食を摂られたあと、午後最初の日程として、新宿の伊勢丹百貨店(当時三階以上はGHQに接収されている)で開催中の「平和産業転換展」を御視察になった。

 

 

  

 新宿伊勢丹(2006年)

 

(Wikipedia)

 

 

 

 

 (Google Earth)

 

 

 

 

  このころになると、陛下の都下御巡幸を知った都民が誰言うこともなく自然に伊勢丹前に集まり、陛下のお出ましを今か今かとお待ち申し上げることとなった。

 

 陛下が御視察を終えられ玄関にその御姿が見えるや、その途端であった。

 

 誰かが音頭を取ったわけではない

 

 

 「天皇陛下、万歳!」  「天皇陛下、万歳!」  「天皇陛下、万歳!」

 

 

 の絶叫が巻き起こり、伊勢丹百貨店を震わせるほどに轟き渡った。

 

 

 一歩店外に歩み出られた陛下はハッとしてお立ち止まりになり、帽子を取ってにこやかに、万歳の声にお応えになられたのである。

 

 その場に立っていた老若男女、皆感激の涙に咽びながら、なお万歳を叫び続けた。

 

 陛下も、温容そのままに帽子を振り続けられ、やがて次の予定地に向かうため御車にお乗りになり出発されたのであるが、群衆はMPや警護の警察の制止も振り切って車道になだれ込み、万歳を叫び続けた。

 

 陛下も、車中からいつまでも帽子を振って、歓呼にお応えになられた。

 

 

 

  万歳の声に見送られた陛下は、次に世田谷区上馬にある野戦重砲第八連隊の兵舎跡に設けられた戦災者収容所に御成りになった。

 

 

 

 (Google Earth)

 

 

 

 

  陛下が一歩舎内に入られると、戦災孤児たちが、手作りの日の丸の小旗を振ってお迎えした。ここは、畳一枚に二人が生活する、狭くて粗末な施設である。

 

 陛下は、そんな宿舎ひとつひとつを訪ねられ、戦災者に御言葉をおかけになられた

 

 

 

 

  この日最後のお立ち寄り先は、都立第一中学校(現都立日比谷高等学校)である

 

 

 

 (Google Earth)

 

 

 都立日比谷高等学校正門

 

 (Wikipedia)

 

 

 予定では、三つの教室の授業風景をご視察になるはずであったが、陛下は教師や生徒の姿がある教室すべてをお廻りになり、親しくお声をおかけになられたのである

 

 

 この後陛下は皇居にお戻りになり、都内御巡幸の第一日目の日程は終了したのであった

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

  帝都御巡幸二日目の三月一日は、みぞれ混じりの冷たい雨が降り続く、寒い朝から始まった

 

 この日の訪問は、三多摩地方である(三多摩とは、東京都のうち、東京二十三区(旧東京市)と島嶼部(伊豆諸島、小笠原諸島)を除いた市町村部を指す。都下町村の市制移行を経て、現在「多摩」の地名は多摩市と奥多摩町、西多摩郡等に残っている)

 

 

 

  陛下の御一行は、まず府中(当時は北多摩郡府中町)市の戦災孤児収容所東光寮に到着された。

 

  両親を亡くし身寄りも無い、いまだ幼い子供たちが行儀良く並び、陛下をお待ちしている。

 

 陛下は傘を手に歩み寄られ、子供たち、ひとりひとり全員のいとけない顔を見つめながら、励ましの御言葉を賜った。

 

 大金侍従長ら、陛下の御側に供奉する者たちも、この子らに幸あれ、と願わずにはいられなかった

 

 

  

 

 

 

 

(Google Earth)

 

 

 

  次いで御一行は稲城(当時は南多摩郡稲城村)市の大丸稲城寮(外地からの引揚者が収容されている)を訪問され、陛下は、混乱の中でようやく帰国を果たした入所者たちにねぎらいの御言葉を賜った。

 

 続いて日野(当時は南多摩郡日野町日野町農業会では、地元の畑作状況について説明を受けられ、皆で力を合わせて食糧増産に頑張ってほしい、と一同を励まされたのである。

 

 

 続いて八王子市の織物工業統制会を訪問され、ここで御昼食を摂られた。

 

 

 

 

(Google Earth)

 

 

 

 

(Google Earth)

 

 

 

 御昼食後、陛下の御一行は市内の明神町にある富正(とみせい)織物合名会社を訪問された。ここでも生産状況の説明に耳を傾けられ、陛下はそのあと、工場で働く女工さん達を激励されたのである。

 

 

 

 次いで陛下の御車は、都立第四高等女学校現在女学校の跡地には都立南多摩高等学校と都立南多摩中等教育学校が併設されているが、2015年三月に高等学校は閉校が決定しているに到着した

 

 

 

 

 都立南多摩高等学校及び南多摩中等教育学校正門付近

  

(Wikipedia)

 

 

 

 

 

 この女学校の校舎は爆撃のために跡形もなく焼け落ちてしまったのであるが、終戦直後同校の先生と女生徒たちは、自分たちの手で校舎を再建しようと思い立ち、学校周辺を捜し歩いて材木を集め、学校まで運んできては女の細腕をもって、馴れない手つきで作業をしたのである。

 

 そして完成した校舎の噂は宮内省にも届き、やがて陛下の御耳にも達した。

 

 陛下が

 

 「そんな感心なことがあるのなら、ぜひ行ってみたい」

 

 と仰せられ、今回の御巡幸に際し、お立ち寄りが決まったのである。

 

 もとより、素人がにわか仕立てで建てた建物が、万全なもの、満足のいくものだとは、望むべくもない。

 

 しかし粗末ではあってもそこには、自らの学び舎を自らの手で再建することに奔走した女生徒とそれを助けた教師の、限りない向上心が投影されているのである

 

 

 御車を降りられた陛下は、そぼ降る冷たい雨のもと自ら傘をさされ、校庭の粗末なお立ち台の上にお昇りになった。

 

 そして新築成った校舎をじっと御覧になり、やがて校庭にかしこまる生徒や教師の方に向き直られた

 

 

 

  壇上の陛下

 

 

 

 

 

 岩崎校長が、教師と生徒が力を合わせて校舎を建てたことを奏上すると陛下は、

 

 「よく建てられました」、「よく建てられましたね」・・・・・、

 

 と何度も繰り返され、御褒めの御言葉をかけられたのであった。

 

 

  校長の奏上をお聞き届けになった陛下は、お立ち台を降りられ、突然、小屋のような職員室にお入りになられた。岩崎校長もあわてて陛下の後に続いた。

 

 その様子を見ていた職員も生徒も感激して、皆、泣いたのである。

 

 

 職員室では、陛下は、

 

 「職員生徒は食糧に困ってはいないか」

 

 とご質問があったという。

 

 

  再び外に出られた陛下は四年生の生徒の前に歩み寄られ、先頭に立つ生徒に、

 

 「家は焼かれたか」

 

 とお聞きになられた。

 

 「はい、焼かれました」と女生徒がお答えすると、陛下は

 

 「そう、でも早く校舎が建ってよかったね」

 

 と、慰められたのである。

 

 そして陛下は、整列している生徒らに次々とやさしい御言葉をなげかけられた。

 

 

 「お家はどこ。焼かれたの」

 

 「学校が焼けて大変だったね」

 

 「校舎がよく建てられたねえ」

 

 「しっかりね」・・・・・

 

 間近で陛下の御言葉を拝した生徒たちは、皆感涙にむせんで声も出なかったという。

 

 

  かくて陛下は、同校千三百人の職員、生徒らの感激の涙にぬれての御見送りのうちに御乗車になり、本校を後にされたのである

 

 

 

 


 

 

 

 

 第四高等女学校では、陛下行幸の直後、「行幸記念録」という文集をまとめた。以下は、その中の一編である。

 (原文は旧仮名遣い)

 

 

 

  天皇を拝す

 

 

 一年   遠山陽子

 

 

 (前略)陛下は御車からお降り立ちになり、御手に傘をお取りになって、私達の方へ玉歩を運ばせられました。私達は思わずじっと頭が下がりました。

 

  陛下は、お帽子をお取りになって、私達に御会釈を賜りました。

 

 ああ、何という光栄、今迄御写真でしか拝した事の無かった天皇陛下が今、お帽子をお取りになって私達女学生に御答礼あそばされたのであります。

 

 私は胸一ぱいの感激で、ただ何もかも忘れ、全身身をかたくして陛下を仰ぎました。

 

  だんだんと歩ませられる陛下には、茶色のソフト帽に、普通のオーバーを召させられ、普通のこうもり傘を御手づから持たせられ、その御手には、手袋さえもおはめ遊ばされず、普通の人と何等かわりない御質素な御身なりと、お親しみ深い御様子、私は有難さに胸がこみあげてきて泣きました。

 

  陛下が壇上にお立ち遊ばされて校長先生の申し上げる御説明に一々おうなづき遊ばされ、あちこち眺めさせられる御姿を、涙にかすんで拝しました。

 

  夏の暑い日、私達が汗を流して一生懸命働いた跡をお目にかけるのだと思えば、今更に勤労した喜びが、湧き上がってくるのでありました。

 

  陛下は、次に私達の手で造り上げた壕舎の中にお入り遊ばされました。私は陛下が、どんなお気持ちで、あの壕舎をご覧遊ばされるのかと思って、じっと入り口を見つめていました。

 

  やがて壕舎からお出まし遊ばされた、陛下のお顔は、お優しい御微笑を含ませられていらせられました。

 

  陛下は再び私達の方へお近づき遊ばされました。私達は、自然と頭が低く低く下がりました。

 

  その時

 

 「お家は焼けたの。」

 

 という玉音に、はっとして頭を上げると、「はい、焼けませんでした。」という中村さんの声が聞こえました。

 

  「ああそう。それは良かったね。お家はどこ。」

 

 という重ねての御下問。

 

  ああ、私は天皇陛下の玉音を拝聴することが出来たという感激とともに、この栄光に浴することが出来たといううれしさで、畏れ多いこととは思いながらも、おなかの底からこみあげるうれしさに、眼元に浮かぶ微笑をどうすることもできませんでした。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 この後陛下は八王子市役所を御訪問になり、市長から市の現況について説明を受けられ、さらに市役所前に集まった多数の市民による奉迎を受けられた。

 

 

 

 

 (Google Earth)

 

 

 

 帝都御巡幸二日目、最後の御訪問地は横山村(当時:現在は八王子市に編入)である。

 

 ここには、陛下の御父君大正天皇の墓所多摩陵が設けられている(後年、貞明皇后多摩東陵、昭和天皇武蔵野陵、香淳皇后武蔵野東陵も、多摩陵の至近の地に設けられることになる)

 

 村民の熱烈な奉迎を受けられた陛下は、横山村元幼年学校耕地にて、村長から当村の農業振興について説明を受けられた。

 

 

 

 これをもってすべての日程を終えられた陛下は、村民の万歳の声、打ち振られる日の丸に見送られ、多摩陵にほど近い東浅川仮停車場(現在駅は廃止され、東浅川駅跡として史跡になっている)に向かわれた。

 

 ここから御召し列車にお乗りになり、帰途に就かれるのである。

 

 二日間にわたった帝都御巡幸は、こうして無事終了することになった。

 

 

 次の御巡幸予定地は群馬県、三月二十五日(月)に始まる。

 

 

 

                           (終わり)

 

 

 

 

 

 

 

(参考文献)

 

 鈴木正男著「昭和天皇の御巡幸」(展転社)

 

                        他

 

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